四
福沢の言う通り、台湾出兵が呆気なく終わったために、不平士族の問題は依然としてくすぶっていた。しかも台湾から鹿児島県に帰った者たちが、意気揚々と生蕃征伐の自慢話をしたために、居残っていた者たちの熱気は、いやがうえにも高まった。つまり火に油を注いだのだ。
とくに西郷隆盛率いる私学校は、日増しにその兵力を増強し、鹿児島県は、あたかも独立国の様相を呈して始めた。
これに頭を痛めた政府は、次の一手を打つ。
西郷の抑えとして、旧主君の島津久光を空席の左大臣の座に就け、政府に迎え入れることにしたのだ。
ところが久光は一筋縄ではいかない人物で、近代化を進める政府に対し、復古的な八カ条の建言を突きつけた。中でも近代化の推進者に対する憎悪は激しく、大隈は名指しで免職を求められた。しかも久光は左大臣に就任したものの、大隈の処分が決まらないうちは出仕しないとまで言い出す始末だった。
三条らは大隈と久光を面談させ、大隈に近代化の必要性を説かせるが、久光は全く受け容れない。もはや理屈ではないのだ。
この後も久光は大隈の辞任要求を繰り返し、政府を困らせる。あまりの久光の強硬な態度に、三条と岩倉は大隈に参議辞任を求めてきた。
二人は大隈に参議だけやめさせ、大蔵卿と台湾蕃地事務局長官の座を保証したが、大隈が「それなら全部やめる」と言い出したので、今度は久光をなだめることになった。
明治八年(一八七五)になった。
一月、大隈は税制改革並びに産業政策の重大な提案をする。これは明治初年以来、輸入高が常に輸出高を上回っているので、金銀銅貨が大量に流失し、日本の紙幣の信頼が失われ始めていることに起因していた。
一方、台湾出兵から派生した問題が一段落した前年の末頃から、政府内では立憲制の議論が盛んになっていた。
立憲制とは、憲法を定め、議会を通して一般国民にも国政に参与させようという政体および政治理念のことで、いよいよ機が熟してきた感があった。
正月明けから、伊藤の根回しで大久保、木戸、板垣の三者が大阪で会談を重ね、木戸と板垣が参議となることで、挙国一致体制で立憲政体へと移行していくことが決まった。この一連の会談は大阪で行われたことから、後に大阪会議と呼ばれる。
三月に木戸と板垣は参議に復帰し、四月には「漸次立憲政体樹立の詔」が発布された。
この連携は、大隈にとっては好ましいものではなかった。薩長土藩閥が手を組めば、自然な流れで、それ以外の者たちが政府の主要ポストから締め出されることになる。現に大隈の許には大阪会議の情報が全く入ってこず、早くも蚊帳の外に置かれつつあった。
だが大隈は、個人的にそれどころではない事態に直面していた。長年の過労がたたったのか、正月明けから体調がすぐれず、出勤できない状態が続いていたのだ。三月にはすべての職を辞任し、療養に専念するという噂も出ていた。
五月三十日に大久保が大隈邸に見舞いに訪れ、暗に参議兼大蔵卿という職からの辞任をほのめかしたので、まだ万全ではなかったが、大隈は六月一日から出勤を再開する。