この男は、わしの二歩も三歩も先を行っている。|三軍暴骨(三) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。


 吉原や品川が遊女の街なら、柳橋は芸者の街だ。粋の分かる豪商は、江戸時代を通じて吉原よりも柳橋で遊ぶことの方が多かったという。

 明治七年末、大木が柳橋の料亭で、福沢諭吉との席を設けてくれた。

 人力車を下りた大隈は、芸者の小唄と三味線が聞こえる中を歩き、指定された店の暖簾をくぐった。

 大隈が料亭の一室に入ると、先に着いていたのか、福沢らしき人物が一人で待っていた。

 福沢の身長は高く、肩幅も広く、骨柄もいい。だが何と言ってもその顔立ちが立派だった。

 —どこから見ても美丈夫だな。

 学者肌の人物に美丈夫は少ない。美丈夫は周囲からもてはやされるので、こつこつと努力を積み重ねるようなことをしないからだ。

 —だが、この男は違うようだ。

 互いに初対面の挨拶を済ませたが、福沢は政府高官の大隈を前にしても物怖じすることなく、かといって無理しているような感じもしない。あくまで自然体なのだ。

 福沢が早速言う。

「大木さんは急用ができたらしく、来られないそうです」

「えっ、そうなのですか」

 —大木さんは自分がいない方が、話が弾むと思ったのだな。

 大木が気を使ってくれたことに、大隈は内心感謝した。

「それで私に、『一人でも会うか』と問われたので、『もちろんです』と答えました」

「ありがとうございます」

 大木が気を回したことを、福沢も分かっているようだ。

 心中、苦笑しながら大隈が福沢の著作を褒める。

「ご著作は、たいへん参考になりました」

 福沢の方が年齢は三つほど上なので、大隈は丁重に接した。

「ああ、『西洋事情』と『学問のすゝめ』お読みいただけましたか。それらの著作は諸外国の文明を日本に紹介しただけのものです。あんなものは西洋に行った者なら、誰でも書けます」

 福沢は自らの著作をにべもなく否定した。

「では、これからは何を書かれていくのですか」

「われら西洋諸国に行って学んできた者は、その事情や文物を伝えるだけでなく、それらをいかに消化して、わが国に適用していくかまで提言していかねばなりません。つまり政策提言です。此度も一席設けてもらったのは、何らかのお役に立てるかもしれないと思ったからです」

 大隈には、こうしたブレーンが今までいなかった。とくに多忙にかまけて海外に行っていないので、福沢のような人材はたいへんありがたい。

 福沢が自らの足跡を語る。

「私は豊後中津藩の下級藩士の家に生まれました。父は大坂蔵屋敷の役人でしたが、儒学者でもあり、家には書籍がたくさんありました」

「福沢家は学者の血筋なんですね」

「いえいえ、大坂という町の雰囲気ですよ」

 大坂は商都だが、蔵役人たちの中には学問熱心な者が多くいた。その最たるものが大塩平八郎で、大坂町奉行組与力という高位の幕臣であるにもかかわらず、陽明学に傾倒し、飢饉で苦しむ民を見過ごせず武装蜂起に走るほどだった。

「お父上のおかげで、学問を好まれたのですね」

「はい。しかし父は私が一歳半の時に病死したので、記憶がありません。その後、家督を継いだ兄が私に目を掛けてくれ、勉学に明け暮れることを許してくれたのです。それでベルリが来た直後、長崎に留学させてくれました」

 ベルリとはペリーのことだ。

「長崎では何を学んだのですか」

「藩の役に立ちたいと思い、オランダ語を学び、砲術書を貪るように読みました」

 安政元年(一八五四)、二十歳の時、福沢は長崎に行って蘭語と砲術を学んだ。

「そうだったんですか。私も少年の頃からしばしば長崎には行っていたんですが、滞在したのは慶応元年(一八六五)から三年ほどですから、時期が合わなかったのですね」

「私の場合、長崎滞在は一年ほどで、すぐ大坂の緒方洪庵塾に入り、英語を学びました。安政五年(一八五八)からは江戸に出て、蘭学塾を開きました」

 蘭語から英語に転換したのは、大隈も同じだった。

「その後、福沢さんは何度も欧米諸国に渡航しているのですね」

「はい。万延元年(一八六〇)に咸臨丸で渡米し、文久元年(一八六一)には幕府使節の一員として欧州諸国を歴訪し、翌年にも幕府の軍鑑受取人として渡米しました」

 福沢は幕末維新の動乱期に渡米と渡欧を繰り返し、その成果を多くの著作物にしていた。

「福沢さんの経歴は素晴らしい。海外に行ったことのない私なんて、及びもつかないです」

「何を仰せですか。大隈さんこそ、政府で赫々たる実績を残されたではないですか」

「いや、私は単なる宮仕えです。それに引き換え、福沢さんは在野の傑物だ」

「これまで幾度か、政府に出仕しないかという誘いを受けましたが、すべて断り、生涯を草莽の学生として過ごすことにしました」

「それはもったいない。なぜですか」

「今の政府は薩長のものです。彼奴らはそれぞれの藩閥の利益だけを念頭に置き、国民のための政治を行っていません」

 薩長両藩閥が幅を利かす現政府の一員であるだけに、大隈も肩身が狭い。

 福沢が強い口調で続ける。

「大切なのは『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』ということです」

「ははあ、万人平等思想ですね。仰せの通り、近代国家は万人平等であらねばなりません。しかし実態は、残念ながら福沢さんのご指摘の通りです」

 薩長両藩閥が支配する政府は、コネが堂々とまかり通り、次代を担う若者も、鹿児島県と山口県出身の若手ばかりを採用している。しかも彼らは、とんとん拍子で出世していくので、能力第一主義とはほど遠い。

「そんな政府に出仕しても、私の才能と知識を無駄に蕩尽するだけで、真に国民の利益に資することにはなりません」

 —凄い自負心だ。

 福沢は己の才覚と知識を最も有効に使う手立てを考え、在野でいるという道を選んだのだ。

「大隈さん、このまま薩長政府に主導権を握られていては、近代化は失敗します」

「どうしてそう思われるのですか」

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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