斜陽』のかず子は、なぜ上原のような男との不倫に溺れたのか?

光文社新書noteの大好評を博した、早稲田大学・森川友義教授の連載が光文社新書として発売になりました。この書籍化を記念して、cakesでも全文公開します! 不倫小説としての太宰治『斜陽』を考察した前回に引き続き、恋多き太宰が「不倫」をどのように描いたのか、なぜかず子のような女性が上原との不倫に溺れたのかを分析します。『斜陽』編、完結!

(前回からのつづき)

上原の立場から不倫を考える

それでは『斜陽』の不倫について考えてみましょう。上原ーかず子の不倫には、上原から見た場合とかず子から見た場合があるわけですが、まず前者から考察します。

上原はかず子以外にも不倫相手がいました。つまり、上原に不倫について倫理的な歯止めは存在しません。チャンスがあればいつでも、という姿勢です。経験に裏打ちされた不倫偏差値も高そうで、そこに降ってわいたようにかず子が登場するのです。直治曰く「姉さんは美しく」「賢明」ということなので、上原としても、初めて会ったかず子を視覚的に魅力のある女性と思ったことでしょう。

したがって、上原がお酒を飲んだ帰りにかず子に突然キスしたのは、かず子にこうした外見的な魅力を感じたということです。一方のかず子は、このキスがきっかけで上原に恋愛感情をいだくようになります。上原としては軽い気持ちでキスをしたのに、かず子の方では病弱な母親をかかえる悩みから精神的に逃避したいという思いと相まって、徐々に上原への気持ちを高ぶらせていくわけです。

かず子が3度にわたって手紙を出し、上原のことが好きで、上原の子どもがほしいと訴えたというのは先述のとおりです。かず子を浮気相手としてしか見ていない上原にしてみれば、たいへんびっくりしたことでしょう。返事を書かないのも当然です。

想いを募らせたかず子は、突然、しかも夜中に上原のもとに押しかけていきます。一夜の遊び相手としか見ていない上原は、その気持ちを隠そうともしません。上流階級のかず子なら性病の心配がなく、東京から遠い伊豆に住んでいるため秘匿の保証もあります。しかも浮気市場ではありえないくらい魅力度も高い。上原の子どもをほしがっているのが唯一の難点ですが、そのほかの観点からすると不倫相手として理想的な女性でした。

上原はかず子に「遮二無二」にキスをします。かず子からすれば「性慾のにおい」がするキスです。上原は「しくじった。惚れちゃった」と言いますが、これは恋愛感情をいだいたわけではありません。セックスの対象として惚れたという意味です。上原は念を押します。「行くところまで行くか」と。これに対してかず子が拒否をしなかったので、上原としては、あとはタイミングをはかるだけと思ったに違いありません。

 いつのまにか、あのひとが私の傍に寝ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言の抵抗をした。 

 ふと可哀そうになって、放棄した。 「こうしなければ、ご安心が出来ないのでしょう?」「まあ、そんなところだ」(『斜陽』、179頁)

こうして上原は、かず子という魅力的な女性と一夜だけの性行為をしました。そこには愛情のかけらもなく、ただ性欲のはけ口としてのセックスだったのです。かず子と違い、上原はそれ以上の関係を望んでいません。

もう1つ、上原がかず子と肉体関係を結んだ重要な理由として、「貴族」に対する征服欲があったことは見逃せません。太宰が『斜陽』で描き分けているのは、上流階級と庶民の階級的な視座です。この観点から二人の性的な関係を描くことが太宰の意図なのです。

上原は上流階級に対して劣等感をいだいています。自身を「田舎の百姓の息子」とする上原は作中で告白します。

「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なところがある。 (後略)」 (同、175頁)

「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑している。」 (同、175頁)   

上原には直治を通じた上流階級に対する興味があり、畏怖があり、拒絶感があり、劣等感がありました。この「貴族」への屈折した感情の裏返しとして、「おひめさま」のかず子を 肉体的に征服したかったと考えられます。かず子を征服することで、「鼻持ちならない傲慢な」上流階級に対して優越感をいだけたわけです。この意味においても、上原の目的は一夜限りの関係で達成できたことになるのです。

かず子の立場から不倫を考える

では、なぜかず子は上原と不倫関係になったのでしょうか? かず子は独身女性で、不倫相手としてわざわざ上原を選んでいます。上原はいったいどんな魅力をもっていたのでしょうか?

どうやら上原の見かけではないようです。なにしろ、かず子のお手伝いさんは上原を「小柄で顔色の悪い、ぶあいそな人」と評していますし、かず子自身も初めて会った上原の感想を「お年寄りのような、お若いような、いままで見た事もない奇獣のような、へんな初印象を私は受取った」としています。

ところが、一緒にお酒を飲んだ帰りにキスをされて、それがきっかけで上原に対して恋愛感情が芽生えます。たしかに、病気の母をかかえ、遊び人の直治を弟にもつかず子が、現実逃避の手段として恋愛に逃げ込みたい気持ちは理解できなくはありません。したがって6年もの間、片想いの兆候である「美化」した上原に想いを募らせていったことも道理です。もしこの延長線上にある上原だったら、次に会ったときに肉体関係になったとしても自然のなりゆきと納得できる事態でしょう。

しかし、問題はここからです。

かず子は6年ぶりに上原に再会します。目の前に現れたのは以前の上原でも、美化された上原でもありませんでした。見かけが変わり果て、たいへん醜い男になっていたのです。「顔は黄色くむくんで、眼のふちが赤くただれて、前歯が抜け落ち」ていました。生理的に拒否反応が出そうな外見です。

さらにかず子は、上原が自分を愛していないことも悟ります。「性慾のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった」と描写されていますから、かず子は自分が愛情の対象として見られていないことを知っていました。その時点でさっさと帰ってしまえばよかったのですが、しかし上原と寝てしまうのです。

なぜかず子は上原と肉体関係を結んだのか?

2つの説明が可能です。1つは、上原の見かけではなく、才能に惚れていたというものです。心理学者ジェフリー・ミラーらの研究に、女性は排卵期になると、創造的知性をもつ男性に惹きつけられるという仮説があります。女性は排卵期と生理期を繰り返す特徴がありますが、ミラーらは女性の性周期と芸術的才能をもつ男性への好みについて実証研究を行ないました。

①貧乏だが芸術の才能がある

②お金持ちだが芸術の才能は乏しい

③貧乏だがビジネスの才能がある

④お金持ちだがビジネスの才能は乏しい

以上の4種類の男性像を女性被験者に示し、性周期においてどのタイプを好むか選ばせたのです。実験の結果、妊娠しやすい時期では、①の「貧乏だが芸術の才能がある」男性がもっとも好まれました。ほかの時期においては、答えはばらつきましたが、妊娠しやすい時期 に性的な関係を結ぶ相手としては、「創造的知性」をもつ男性に惹かれ、その男性との間に子どもを産みたいと願う傾向にあると結論づけています。

まさしく上原は、貧乏であるが、小説家としての才能は豊かです。直治から上原の小説を借りて読んでいるので、かず子は上原の知性について承知していました。したがって、当時のかず子が妊娠しやすい排卵期にあったとすれば、上原との子どもを欲しくなったことは、 遺伝子レベルの欲求だった可能性があるわけです。

もう1つの説明は、太宰の『斜陽』のメインテーマからの仮説で、上原が庶民と上流階級との「懸け橋」の役割を果たしたという考え方です。いかにも太宰的な解釈です。

上原は自分を庶民の出身としていますが、かず子にとっての上原は「庶民の世界からの逸脱者」なのです。上流階級と庶民をつなぐ存在として上原がいて、その上原と肉体関係をもつことは自分が庶民になろうとする強い意志の表れととらえることができます。

そもそもキスをしたのが地下室の階段の「中頃」(「途中」ではなく)というのは示唆的です。太宰が象徴的に「懸け橋」を書いたとも解釈できます。

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