生きがいについて(神谷美恵子)前編

今回の書評は、1966年に出版され、今なお多くの人に読み継がれている名著『生きがいについて』です。finalventさんが「読者にとって、生涯の一冊となることが定められている本」とまで言い切る本書には何が書かれているのでしょうか。著者・神谷美恵子自身の生き方にも迫る渾身の書評を、3回に分けて掲載いたします。

「ミカサ」のような教養の怪物

 精神科医の神谷美恵子が1966年(昭和41年)に『生きがいについて』(みすず書房)を著して半世紀近く経つが、この本は静かに読み継がれている。名著との推薦を受けて読む人もいる。表題に引かれて「生きがい」の参考を求める人もいる。著者の人物像に魅了されて、その秘密を探るろうとする人もいる。しかし、こう言うべきではないかもしれないが、名著であることは理解できても、「生きがい」を得るためのヒントは思いのほか少ないかもしれないし、神谷美恵子という人の秘密もそう簡単には解けないかもしれない。そうだとしたら、この本にどんな意味があるのだろうか。いや、意味どころではない。この本は読者にとっては、生涯の一冊となることが定められている本であり、むしろ本と呼ぶよりも人生を生き抜くための友人の言葉となる。「あなた」がそうした読者となるだろうか。その問いはおそらく読者が抱えた絶望と孤独の深さによって決まる。


生きがいについて みすず書房

 神谷美恵子は1914年(大正3年)、教育行政官の父・前田多門の第二子として赴任先の岡山県岡山市で生まれた。2014年には生誕100年となる。精神科医としてハンセン病療養施設に献身的に勤務したことで称賛されることもあるが、彼女がいったい何者なのかを一言で表現することは難しい。それでもあえて表現するなら、人間存在の可能性と謎を体現した、超人のような女性でもあった。

 現代の若い人に伝えるとしたら多少飛躍した比喩だが、『進撃の巨人』(講談社)というアニメ・コミック作品に出てくる少女兵士・ミカサが私には連想される。ミエコ(美恵子)はミカサのような「武」の人ではなく、「知」おいて無双とも思われるほどだった。さらにその連想を延長すれば、ミエコはエレンを失ったミカサでもあった。

 語学は天才と言ってよい。9歳から12歳まで父の赴任先、ジュネーブで過ごし、母語・日本語に上回るフランス語能力を身につけてバイリンガルとなった。大人になってからも思索の一部は自然にフランス語で進めていた。1960年代前半、日本の知識人がまだミシェル・フーコーに注目する以前に彼の親しい友人になっていて、その主著『臨床医学の誕生』(みすず書房)を1969年に翻訳した。大学時代に英語も修得し、24歳から26歳まで米国コロンビア大学大学院で古典ギリシア文学を学んだ。

 彼女がコロンビア大学大学院で古典ギリシア文学を学んだのは、20代前半でありながら古典ギリシア語がすらすらと読めたからである。聖書もプラトンも原語で読んでいた。その成果の一つは、1949年に創元社から出版したマルクス・アウレーリアス『自省録』の翻訳である。1956年に岩波文庫に収録され、現在でも読み継がれている。

 また、彼女は医師であったことからもわかるように、理系にも優れた人でもあった。コロンビア大学留学時代から医学を学び、付随して理系の学問も修めた。それも優秀な成績だった。

 ネイティブ並みの英語も使いこなせた。その卓抜な英語力で、敗戦後日本の初代文部大臣となった父・多門を補佐した。実質、GHQと文部省の折衝を一手に引き受けていたのは彼女だった。

 ドイツ語やイタリア語にも精通した。ダンテの『神曲』もイタリア語で読破した。他方、日本語や日本語古文についても同じ情熱で学び、道元の著作なども親しんでいた。語学の天才でもあり、教養の怪物と言ってもよい。英語であれ、フランス語であれ、古典文学であれ、またその他の人文科学でも、余裕でその第一人者に立つことができるほどの能力を持っていた。が、彼女はその語学の能力をむしろ呪わしいとまで言った。彼女に語学を期待する人が多かったが、彼女自身はそこに求めるものはなかった。

「生きがいを失ったら」

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finalvent

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