大正、昭和初期に活躍した直木三十五は忘れられた作家のひとりだろう。直木賞にその名を残すが、彼の小説を熱心に読んでいる人は令和の今、ほとんど見かけない。いや、全く見かけないといっても過言ではないだろう。
幕末の薩摩藩で起きたお家騒動をテーマにした『南国太平記』は直木を人気作家に押し上げた代表作だが、1990年代に文庫で復刊したものの、初版で絶版になっている。実際、あなたも「いやー、やっぱり『南国太平記』は面白いね。たまらないよ」なんて言っている人を見たことはないはずだ。
直木の執筆量の多さは当時、芥川と並び双璧だったが、芥川が読み継がれているのとはあまりにも対照的だ。正直、直木は小説よりも、彼自身の生涯が面白い。
直木が作家として小説を量産し始めるのは、昭和9年(1934年)に43歳でこの世を去る5年ほど前からにすぎない。それまでは、出版事業を興したかと思えば、日本初の文芸映画を製作した。いずれも当時は勃興期で成長が見込める産業だった。よく言えば、新しいもの好きのプランメイカーであり、実態は山っ気たっぷりのプロモーター。それこそが直木の本質だ。作家になったのは手がける事業がことごとく上手くいかず、書くことしか残らなかったのだ。
直木は明治24年(1891年)、現在の大阪市中央区で生まれる。本名は植村宗一。植村の、植を、二分して、直木を筆名にした。その時、三十一歳だったので、直木三十一と名乗り、年齢とともに三十二、三十三と筆名を変えたが、「ちょっと変えすぎだろ」と周囲からの助言もあり、昭和元年以降、三十五で固定する。
直木は、早稲田大学入学と同時に上京するも、勉学そっちのけで遊ぶ。すぐに、後に妻となる女性と暮らし始めるも、学生のくせに一流志向の浪費家なので当然、カネは常に足りない。授業料として送金してもらったカネを使い込み、やり繰りしていたが、結局、中退。中退後も親を騙して仕送りを続けてもらうが、その場しのぎは続かない。4年経ち、親には卒業したと伝えたため、仕送りは止まり、働かざるをえなくなる。
とはいえ、就職難の時代。大学の卒業資格も得られず、そもそも本人に働く意欲が皆無なため、まともな働き口は見つからない。見かねた友人が就職先を世話してくれても、面接に行かなかったり、面接に行っても何も話さなかったり。「やる気あるのかよ」と誰もが思うだろうが、そんなものはあるわけはない。
業を煮やしてなぜか直木の代わりに妻が働き始める始末で、直木が小さい子どもを背負ってあやすことに。主夫という言葉はない時代だがこの時代、直木はまさに主夫だった。この状況では、小説家直木三十五は生まれそうにないが大正7年(1918年)に人生の転機が訪れる。
会社(春秋社)を仲間と共に立ち上げたのである。立ち上げたといっても、自分のカネではなく、人のカネだ。
直木は、無口で愛想がないが、希代の「人たらし」だった。会社の設立も大学時代の友人が直木の魅力にとりつかれ、その友人が仲間と起業する際に「なんか面白いヤツはいないか」という話になり、誘われた形だ。直木はその頃、さすがに働き始めていたものの腰掛け程度で長続きせず、数社を渡り歩いていた。そこに、声がかかるのだから、持つべきものは友なのかもしれない。そして、一銭も出していないのに取締役として参加することになる。
直木はこのチャンスに別の友人も誘い込み、その友人に資本金を出させて、姉妹会社(冬夏社)も立ち上げる。直木、一銭も出していないのに、二社の幹部である。
春秋社では直木が企画した外国人作家の翻訳物は売れ行き順調だったが、残念ながら、人間の本質は変わらない。カネが入ろうがいや、入ったらなおさら右から左にカネを使うようになり、挙げ句の果てに会社のカネまで使い込み、公私混同で豪遊するようになる。
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