キモい中年男」小説と思われがちな田山花袋『蒲団』は、繊細な恋愛描写が胸を打つ傑作である

光文社新書noteの大好評を博した、早稲田大学・森川友義教授の連載が光文社新書として発売になりました。この書籍化を記念して、cakesでも全文公開します! 今回から田山花袋の『蒲団』編がスタート。ちょっと気色の悪いラストシーンばかりがクローズアップされがちですが、きちんと分析すると、実は恋愛の本質をしっかり描いていた小説だったと納得できるはずです。

ここまでの「純愛」から一転して、第4章と第5章では「不倫」がテーマの小説を取り上げます。まずは田山花袋の『蒲団』から。『蒲団』を読んだ人が思い出すのは「キモいにおいフェチの小説」といったところでしょう か。あるいは「不倫願望に悶々とする変態中年の話」となるのでしょうか。

両方とも間違いではありません。この小説の最後の場面だけ切り取るとそういう感想にもなりかねませんが、これからお話しする恋愛のしくみを知ってもらえたら、それほど違和感のない内容だと納得してもらえるはずです。

順をおって詳しく説明しますが、わたし自身も数十年ぶりに『蒲団』を読みなおしたところ、以前とは評価がだいぶ変わりました。あらためて「不倫学」(という学問を提唱しています)の見地からこの小説を読むと、主人公は「キモい」「変態」というより、相手のことがすごく好きだったんだな、というむしろほのぼのとした感想をもつようになりました。

嗚呼、中年男の恋  

主人公は竹中時雄。33歳前後の、職業は文学者です。『蒲団』はわが国最初の私小説なので、主人公のモデルは花袋自身であり、この小説は花袋が経験した恋愛の告白ということになります。時雄は「美文的小説」を書いて生業としていました。ただしあまり売れていないため、地理書を編集する仕事で食いつないでいます。

時雄は既婚者で、子どもが三人います。新婚時代はすでに過ぎ去り、「単調なる生活につくづく倦き果てて了まった」心境でした。離婚が頭をよぎっていたりもしていますから、結婚生活の倦怠期ですね。日々、不倫の妄想をしています。

そこに、19歳の横山芳子という神戸女学院大に通っていると思しき女子大生が弟子入りを志願してきます。「一生文学に従事したいとの切なる願望」があるので、作家志望ということです。何度か手紙でやりとりするうちに時雄は気に入り、弟子入りを許したため芳子は上京してきます。会ってびっくり、「ハイカラな新式な美しい」女性でした。さすがに一緒に住むのはまずいと思い、世間体を考えて時雄の姉の家に同居させ、そこから麴町の女子大に通わせることにしました。

時雄としては芳子と不倫したくていろいろ妄想をしますが、妄想するだけで行動には移しません。やがて1年半が経過した頃、芳子は、旅先の京都で知り合った同志社大学の学生、21歳の田中秀夫と恋仲になっていることが発覚します。自分だけの芳子だと思っていた時雄はたいへんショックを受けます。秀夫と肉体関係があるかどうか疑うのですが、芳子本人は否定します。時雄は深酒をして憂さを晴らし、妻や子どもに八つ当たりします。

そんな折、秀夫は芳子会いたさに上京してきます。時雄は、心中穏やかではありません。そのため芳子を自分の家に住まわせて監視することにしました。

秀夫はいったん実家に帰りますが、二人の文通は続きます。時雄は嫉妬に駆られ、芳子の引き出しから秀夫の手紙を盗み見て、「接吻の痕 、性慾の痕が何処かに顕われておりはせぬか」調べます。その時点では大丈夫なようで安心しました。

一方で秀夫は大学を中退し、本格的に上京してきます。時雄はついに秀夫に対面し、「恋の温情なる保護者」としてすぐに実家に帰るように説得しますが、秀夫は東京で小説家になると強情に言い張り、聞き入れません。

芳子も女学校をやめ、秀夫と一緒に暮らしたいと訴えます。芳子の父親も上京し、実家に帰れと秀夫を説得しますが、これもうまくいきません。説得が不調に終わった日の翌日、芳子は時雄に告白します。実は「堕落」して田中と肉体関係になっていたと。

時雄は芳子を見放して、父親とともに実家に帰すことにしました。時雄は元の平凡な生活に逆もどりし、芳子との時間を懐かしく思い出します。「妻が無ければ、無論自分は芳子を貰ったに相違ない。芳子もまた喜んで自分の妻になったであろう」と。

数日後、そのままにしていた芳子の部屋に行きます。「懐かしさ、恋しさの余り、微かに 残ったその人の面影を偲ぼう」と思い、机の引き出しから芳子のリボンを見つけて、においを嗅ぎます。次に押入れにしまってあった芳子の蒲団と夜着を取り出し、これもまたにおいを嗅ぎます。「性慾と悲哀と絶望」が時雄を支配し、蒲団を敷いて夜着に顔を埋めて泣くところで小説は終わります。

『蒲団』の恋愛学的意義

『蒲団』は「新小説」という文芸雑誌の1907年(明治40年)9月号に掲載され、翌年 『花袋集』という本に収録されました。

花袋は「自然主義」に分類される作家です。日本文学における自然主義は、この『蒲団』 の登場(花袋は回想録に『蒲団』は当時4~5万部売れたと記している)によって、西欧の自然主義が近代社会を客観的に描く眼差しをもっていたのとは一線を画すようになり、しだいに赤裸々に、個人の生き様をありのままに描写する方向に傾斜していきます。明け透けもなく 「私」の体験や欲望について書くことこそが、人生に対して、あるいは文学に対して誠実であるという意識があったわけです。

その意味で、『蒲団』は恋愛小説として、2つの点で画期的です。

1つめは、明治・大正時代の作品の中で、唯一恋愛を「嗅覚」で表現した点です。これから述べるとおり、恋愛において嗅覚は非常に重要な要素なのですが、『蒲団』はこれを見事に描写しています。時雄はリボンや夜着や蒲団に残る芳子のにおいを嗅ぎますが、それはわたしたちの遺伝子の欲求からすると自然な行為です。小説で描くと「キモい」と感じられるかもしれませんが、わたしたちが無意識のうちに、好きな人のにおいを嗅ごうとしていることは否定できない事実なのです。

もう1つは、「不倫」の心理描写を克明に作品化した点です。『蒲団』が日本初の私小説で、この作品は田山花袋本人の経験が書かれていると前述しましたが、芳子のモデルは岡田美知代、秀夫は永代静雄という実在の人物で、つまりは現実の出来事に基づいています。不倫願望をいだき妄想したのは、ほかでもない田山花袋その人なのです。したがって、花袋は不倫をしようとする人が必ずたどる心理状態を詳細に言語化することができました。ただし、願望はあっても、作中の時雄はすんでのところで思いとどまっていますので、実際に「不倫した後」の心理描写までには至っていません。性描写を含めた不倫後の細部の心理については、平成の渡辺淳一『失楽園』まで待たなくてはなりません。

五感と恋愛

それでは、恋愛と嗅覚のメカニズムについて述べていきましょう。

人間が恋愛をする場合、そこにはまずプロセス(過程)というものがあります。いきなり性行為をするわけではありません。5つのステップがあって、1つクリアするとまた次のステップというように段階が存在するのです。

それが嗅覚を含む「五感」というステップです。五感とは視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の5つを指し、この五感によって異性をふるいにかけるというのが恋愛のプロセスになります。

異性に出会うと、まず目で相手の見かけを判断します(視覚)。視覚的に合格すると、次は耳で相手から情報を引き出します(聴覚)。お互い話がはずむと距離が縮まってお互いの体臭を嗅ぎ合うようになります(嗅覚)。その後、デートして手をつなぎ(触覚)、合格するとキスをする(味覚)というのが五感的な手順です。

もう少し詳しく解説しましょう。五感というのは、相手を吟味する手段でもあります。青果店でメロンを買うケースにたとえましょう。目で見て形のいいものに目星をつけ、(メロンと直接会話はできませんが)店員と会話をすることで情報を入手し、においを嗅いでおいしいかどうかを吟味し、触ってみて重さや感触を確かめ、可能であれば味見をさせてもらうというように、五感を使ってメロンの良し悪しをチェックするわけです。このプロセスは、恋愛においても以下のように同じステップをたどります。

第一段階「視覚」
視覚は「見かけ」のチェックです。最初の入口にすぎませんが重要です。とくに視覚的な感知能力に秀でている男性にとって、女性の見かけというのは非常に大切な要素になります。 遠くからでも判断できますし、見かけ(顔と体型)は、ほかの五感的要素と正の相関関係があり(たとえば、見かけがよいと声も美しくなりがち)、まずここでふるいにかけます。

第二段階「聴覚」
第二段階の聴覚的情報は、お互いの性格や価値観や社会的ステータスについての情報を入手するための手段です。声の高低、ピッチ、息遣いといった基本的な情報から、言葉づかい、 話す内容といったことまで、自分と性格的に相性がいいのか、趣味が一致するのかどうか、さらにはどのような仕事に就いているのか、一日をどのように時間配分しているのかについて知ることができます。


第三段階「嗅覚」
第三の嗅覚がもたらす情報は、基本的には、体臭を嗅ぐことによってお互いの遺伝子レベルでの相性を確かめ合うというものになります。50センチ以内はいわゆる「親密ゾーン」になりますが、その距離に入ると、お互いの体臭を嗅ぎ合うことが可能となります。  体臭にはいろいろな情報が含まれていますが、中でもとくに重要なのはHLA遺伝子です。 HLAとは、自己と他者を区別するもので、「Human Leukocyte Antigen(ヒト白血球抗原)」の略です。HLAは、白血球の蛋白質をつくる遺伝子の複合体で、わたしたちが一般 的によく使っているABO型の血液型と似たものと考えて結構です。ただしABO型は赤血球の血液型であり、それに対してHLAは白血球の血液型である点が異なります。

HLA抗原は、人間は自分と自分以外とを識別する機能をもっています。恋愛感情とHLAの関係でとくに大切な点は、人間は自分と違うHLAを好み、自分と似ているタイプの異性は本能的に遠ざけるということです。そしてその好みを発現しているのが、においなのです。

つまり、相手のにおいを「いいにおい」と感知するということは、自分と相手との遺伝子が遠いこと、言い換えると二人の間の子どもが多様性をもった丈夫な子として生まれる可能性を本能で嗅ぎ取っているわけです。他方、相手の体臭を嫌なにおいと感じることは、血が 近すぎて近親の可能性があるからその人との恋愛はやめなさいというメッセージなのです。

HLAが似たもの同士は相性が合わないばかりか、妊娠しづらく、流産しやすくもなり、さらには未熟児が生まれる可能性が高くなります。人はにおいを通じて先天的な相性を感知し合っているというわけです。

ちなみに体臭を嗅ぎ合うためには、人工的なにおいを排除しなければなりません。強い香水、喫煙、にんにくといったものは実は恋愛には不似合いなもので、極力やめるべきです。


第四・五段階「触覚」「味覚」
五感のうち最初の3つを通過すると、デートが開始されます。デート中にも見かけ、会話、においは随時チェックされますが、親密度が高まると、手をつなぎ、キスをすることになります。

人間はなぜ、好きになると手をつなぎ、キスをするのでしょうか?

小学校の教科書に「好きになったら、キスをしなさい」と書かれていたわけではなく、誰かに教えられるものでもありません。実はそれは遺伝子レベルでの欲求であり、先ほどの問いへの答えは「バクテリアの交換」です。手をつなぐという行為によって、何兆というバクテリアが瞬時に相手の手に移ります。キスに比べればバクテリアが体内に入る可能性は低くなりますが、にもかかわらず病気になるとしたら、「これ以上この相手に接近すると害を与えられる」というメッセージとなります。これが4番目のふるいということです。その意味でも、とくに男性の場合、女性が手をつなぎたくなるように清潔感を示すことが不可欠です。

手をつないだ感触がよいと、性行為までの最終審査である「キス」をすることになります。 キスでは口の中のバクテリアを瞬時に交換するので、手に付着した数とは比較にならないほど、直接的な影響を及ぼします。悪性のバクテリアによって病気になるか、それとも免疫力がつくかは恋愛の大きな分かれ道となるものです。

当然キスにおいては、見かけ、声、体臭、皮膚の接触といったように味覚以外の五感も使いますので、お互いの相性を確かめるうえでの最適の関門となります。キスをもっとしたいと願うようになれば、次は子どもが生まれる可能性がある性行為に至り、そこで相思相愛の関係性が完成します。

秀逸な嗅覚描写

では、この五感のプロセスを『蒲団』の時雄と芳子の関係に落とし込んで考えてみます。

第一に、時雄は芳子の見かけを気に入ります。会ってすぐに芳子の「美しい笑顔、色彩に富んだ姿」に魅了されたうえ、「芳子は白粉をつけて、美しい顔をして」いたとありますの で、お化粧をした顔も気に入ったようです。「いかにも艶めかしい」とあるのでセックスアピ ールも感じていました。

第二のステップは聴覚です。この小説を詳細に読むと、時雄は芳子との会話を楽しんでいることがわかります。「言葉は艶めき、態度がいかにも尋常ではなかった」「笑って体を斜に嬌態を呈した」とあるので、笑いや会話の中に芳子の魅力を感じとっています。

そもそも会う前に手紙のやりとりをして、互いの気心は知れていました。芳子の知的な性格について好感をもって弟子にしたのですから、この第二次審査の聴覚については合格だったわけです。

最初の2つのステップをクリアしたことで、時雄は「片想い」になります。第3章で述べたように、相手が気になる→妄想→トキメキ→美化→嫉妬→一喜一憂といったような片想い特有の兆候が生じます。

とくに「嫉妬」はかなりのものです。普段から妻との結婚生活に満足しておらず、芳子とは不倫したいと願っているので、突然現れた秀夫に対して嫉妬の塊と化していました。芳子と秀夫の恋愛が発覚したときは、なんとか関係をやめさせようとさえします。しかし時雄は、 自分が芳子が好きだからとは絶対に言いません。芳子と秀夫の幸福のためを思い、学生なのだから勉強を優先すべきであると、もっともらしい口実をつけて二人の仲を引き裂こうとす るのです。このあたりの描写は、真剣というより恋する中年男の滑稽さすら漂います。

そして、有名なラストシーンです。すでに芳子は実家に戻っていました。自分の恋する気持ちを成就したくてもすることができません。取り残された時雄にとって恋愛をシミュレーションできる最大の行為は、第三段階である、相手のにおいを嗅ぐということのみです。

まずは、芳子が身につけていたリボンのにおいを嗅ごうとします。リボンは頭につけるものなので、においはそれほどではありません。次の行為に至る導入です。時雄は押入れから 芳子の夜着を取り出してにおいを嗅ぎます。HLA遺伝子を確認できる場所は、とくに尿、 汗、母乳等です。「夜着の襟の天鵞絨の際立だ って汚れているのに顔を押附けて」とありますので、時雄は夜着の首筋あたりにたまった汗のにおいを嗅ごうとしたのです。

最後に、「蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい天鵞絨の襟に顔を埋め」ます。においを完結させるには夜着だけで十分でしたが、続けて蒲団も敷き、そのにおいまで嗅ぎました。

どうして蒲団まで敷いたのでしょうか?

時雄にはにおいの次の段階である触覚と味覚、つまりは芳子と性的関係になりたいという願望がありました 。夜着のにおいはあくまで第三段階でしかありません。行為をともなう不倫に至るには、時雄の言葉を借りるなら、次に芳子と「手を握る」「胸と胸とが相触れあう」 ことが不可欠です。したがって、夜着だけでは不十分だった時雄は、蒲団が象徴する芳子と の性行為を、蒲団のにおいを嗅ぐことで妄想したのです。

いかがでしょうか? 花袋の緻密な恋愛描写、すばらしいではありませんか。自分の恋愛感情に真摯に向き合っていたからこそ、芳子の残り香を嗅ぐ行為をこうも繊細に書くことが できたのです。まったくキモくも変態でもありません。


つづく

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この連載について

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恋愛学で読みとく文豪の恋

森川友義

名だたる文豪たちが小説に描いた恋ははたして「アリ」なのか? 恋愛学を提唱する著者が科学的に分析し、考察する。漱石が描く片想いは納得いかないし、川端康成は処女にこだわりすぎで、 三島由紀夫は恋愛描写が下手!? 従来の文学研究にとらわ...もっと読む

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TeamMOSA2 |恋愛学で読みとく文豪の恋|森川友義|cakes(ケイクス) どう読んでも竹中時雄が気持ち悪い。 クソリプおじさんみたいなムーブや。 https://t.co/zXNESFEmwf 6日前 replyretweetfavorite