わかる日本書紀

美人妹に恋する兄。ついに禁忌を犯すも処罰は妹のみ【第19代最終章】

ややこしい日本書紀をわかりやすく紹介した書籍『わかる日本書紀』シリーズ第2巻から、日本の正史を学ぶ連載。今回は第19代、允恭天皇の御代のお話。

カルノミコとカルノオオイラツメの恋

允恭二十三年三月七日、カルノミコ(木梨軽皇子)を、皇太子に立てました。
容姿端麗で、見る者は、ついうっとりするほどでした。同母の妹・カルノオオイラツメ(軽大娘皇女)もまた艶妙でした。皇太子は以前から、カルノオオイラツメと結婚したいと思っていましたが、罪になることを恐れて黙っていました。
しかし恋慕の情が高まり、ほとんど死にそうなまでになりました。そこで、
「空しく死ぬより、たとえ罪になっても忍ぶことなどできない」
と、ついに密かに通じて、悶々とした気持ちが、少しなだめられました。そしてこんな歌を詠みました。

あしひきの※1 山田(やまだ)を作り
山高(やまだか)み 下樋(したび)※2を走(わ)しせ
下泣(したな)きに 我が泣く妻
片泣(かたな)きに 我が泣く妻
昨夜(こぞ)こそ 安く膚触(はだふ)れ

(※訳:
山田を作り
山が高いので下樋を通すように
私が忍び泣きに恋う妻よ
私が独り泣きに恋う妻よ
昨夜は、心安らかにその肌に触れたのだ)

二十四年六月、夏であるにもかかわらず、御膳の吸い物が固まって凍りました。天皇は怪しんで、その原因を占わせました。占いの者は、
「内に乱れがあります。おそらく血縁の近い者の相姦でしょう」
と言いました。そのとき、ある人が、
「カルノミコが同母の妹・カルノオオイラツメを犯しました」
と言いました。尋問すると、事実だとわかりました。
しかし、皇太子を罰することはできないので、カルノオオイラツメを伊予※3に流しました。
このとき、皇太子は歌を詠みました。

大君(おほきみ)を 島に放(はぶ)り 船(ふな)余り
い還(がへ)り来むぞ 我が畳(たたみ)斎(ゆ)め
言(こと)をこそ 畳と言はめ 我が妻を斎(ゆ)め

(※訳:
大君を島に流しても
きっと帰って来よう
私の畳は清らかに保て
言葉でこそ畳というが
我が妻よ、清らかに保て)

天(あま)だむ※4 軽嬢子(かるをとめ) 甚泣(いたな)かば 人知りぬべみ
幡舎(はさ)の山※5の 鳩の 下泣きに泣く

(※訳:
軽の乙女はひどく泣くと
人が知るだろうから
幡舎山の鳩のように忍び泣きに泣く)

允恭天皇の崩御

允恭四十二年正月十四日、允恭天皇が亡くなりました。
新羅王は、天皇が死んだと聞いて驚き悲しみ、献上の品を積んだ船八十艘と種々(くさぐさ)の楽人八十人(うたまいひと)※6を奉りました。
これらは対馬、筑紫に停泊し、大いに嘆き悲しみ、難波津に着くと、みな喪服を着て、それぞれに調物(みつき)を捧げ、種々の楽器を整えました。
難波から都まで、あるいは泣き、あるいは舞い歌いながら進み、殯宮(もがりのみや)に着いて参列しました。

十一月、新羅の弔問の使者たちは、喪の礼が終わり、帰国することになりました。
新羅人は、都の近くの耳成山(みみなしやま)と畝傍山(うねびやま)を、いつも愛でていました。それで琴引坂(ことひきのさか)※7まで来たとき、振り返って、
「ウネメハヤ、ミミハヤ」
と言いました。まだ大和の言葉を習っていなかったので、畝傍山を訛ってウネメと言い、耳成山をミミと言ったのです。
そのとき、大和の飼部(うまかいべ)が新羅人に付いてきていましたが、その言葉を聞いて、新羅人が采女(うねめ)と密通したと疑いました。

そこで引き返し、皇子のワカタケルに報告しました。
ワカタケルは、直ちに新羅の使者をことごとく監禁して、尋問しました。
新羅の使者は言いました。
「采女を犯したことはありません。ただ都の近くの二つの山を愛でて言っただけです」
それで飼部の言葉が偽りだったことがわかり、皆を許しました。
新羅人はこれをたいそう恨み、貢(みつき)と船の数を減らしました。

十月十日、允恭天皇を河内長野原陵(かわちのながののはらのみささぎ)に葬りました。

※1 あしひきの
「山」の枕詞。山に登ると疲れて足を引くためとか、山裾(足)がなだらかに引いているためとか、さまざまにいわれるが、かかり方、意味、ともに不明。

※2 下樋(したび)
地下に埋めた木製の水路。いわゆる暗渠(あんきょ)。ここはひそかに情を交わしたことの比喩となっている。

※3 伊予
当時、伊予(愛媛県)は流刑地だった。流刑地には「遠・中・近」の三種があり、伊予は「中」。

※4 天(あま)だむ
軽の枕詞。意味、かかり方ともに不明。

※5 幡舎(はさ)の山
所在地不明。

※6 楽人(うたまいひと)
奈良時代の雅楽寮には新羅の楽士のいたことが判明している。

※7 琴引坂(ことひきのさか)
ヤマトタケルの墓が「琴弾原」に造られたとあるので、同地(奈良県御所市富田)かもしれないが、遠すぎる。また、この地からは耳成山も畝傍山も見えない。なお不明。

誤解の行方
誉めたにも関わらず罰せられそうになったので、その気持ちはよくわかる。こうしたところから外交問題に発展するのは時代や地域を問わないのだろう。

♦ナッツの妄想コラム

「伊予は良いとこ、一度はおいで」
『古事記』では、カルノミコが先に伊予に流されて、それをカルノオオイラツメが追っていき、再会して二人で死ぬ。
『日本書紀』では、皇太子を罰することができないので、カルノオオイラツメを伊予に流刑とある。
伊予は、『続日本紀』によれば、「遠・中・近」に分類される流刑地の「中」にあたるが、伊予の湯は聖徳太子や舒明天皇なども訪れた保養地だ。

著者二人が伊予出身なので、この伊予流刑の箇所を読むと、「伊予はええとこぞね。海の幸、山の幸に恵まれとるし、人柄もやさしい。伊予のお湯にでもつかってのんびりしたらええがね」と言ってあげたくなってしまう。

★次回更新は10月26日(月)です。


日本のはじまりを知る。

この連載について

初回を読む
わかる日本書紀

村田右富実 /つだゆみ /村上ナッツ

『日本書紀』は神代から第41代持統天皇の時代までを扱った日本最古の歴史書です。しかし本文は漢文、全30巻と長く読解は難しいため、正史ながら読んだことのある人はほぼいません。そこで、劇作家が書くわかりやすい文章と、親しみやすいキャラクタ...もっと読む

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