塀の中で見つけたほんとうの自由
長野刑務所で過ごした約1年9ヶ月の日々は、僕になにをもたらしたのだろう。
僕はなにかを学び、少しくらいは成長することができたのだろうか。それともなにも成長しないまま、無益な時間を過ごしてしまったのだろうか。
いろいろな変化があったのは確かだ。高齢受刑者の介護など、これまでやったことのない仕事に携わることもできたし、たくさんの本を読む時間にも恵まれた。図らずも「獄中ダイエット」にも成功し、あらゆる意味で身軽になった。
一方、刑務所内でもメルマガの発行を継続するため、毎週手書きで原稿を書いていた。さまざまなビジネスプランを練り、読者からの質問や相談に答えていった。インターネットが使えない分、どうしても情報は紙媒体を中心としたオールドメディアに偏っていく。情報収集にインターネットをフル活用していた僕としては、かなりの痛手だ。それでも、スタッフにブログ記事やツイッター投稿などをプリントアウトしたものを差し入れてもらうことで、情報の偏りをカバーしていった。
考えてみればおかしなものだ。
塀の中に閉じ込められ、自由を奪われた僕が、塀の外で自由を謳歌しているはずの一般読者から、仕事や人生の相談を受けていたのだから。
そして思う。
「みんな塀の中にいるわけでもないのに、どうしてそんな不自由を選ぶんだ?」
刑務所生活で得た気づき、それは「自由とは、心の問題なのだ」ということである。
塀の中にいても、僕は自由だった。外に出ることはもちろん、女の子と遊ぶことも、お酒を飲むことも、消灯時間を選ぶことさえできなかったが、僕の頭の中、つまり思考にまでは誰も手を出すことはできない。
だから僕は、ひたすら考えた。自分のこと、仕事のこと、生きるということ、そして出所後のプラン。思考に没頭している限り、僕は自由だったのだ。
あなたはいま、自由を実感できているだろうか。
得体の知れない息苦しさに悩まされていないだろうか。
自分にはなにもできない、どうせ自分はこんなもんだ、この年齢ではもう遅い——。
もしもそんな不自由さを感じているとしたら、それは時代や環境のせいではなく、ただ思考が停止しているだけである。あなたは考えることをやめ、「できっこない」と心のフタを閉じているから、自由を実感できないのだ。
思考に手錠をかけることはできない。
そして人は考えることをやめたとき、手錠と鍵をかけられる。そう、思考が硬直化したオヤジの完成だ。彼らはもはや考えることができない。考える力を失ってしまったからこそ、カネや権力に執着する。そこで得られるちっぽけな自由にしがみつこうとする。彼らオヤジたちに足りないのは、若さではなく「考える力」、また考えようとする意志そのものなのだ。
僕はオヤジになりたくない。
年齢を重ねることが怖いのではなく、思考停止になること、そして自由を奪われることが嫌なのだ。だから僕は考えることをやめないし、働くことをやめない。立ち止まって楽を選んだ瞬間、僕は「堀江貴文」でなくなってしまうだろう。
あなたは普段、どれくらい考え、どれくらい行動に移しているだろうか。借りてきた言葉を語る、口先だけの人間になっていないだろうか。
この最終章では、自由について、そして僕の考える「これからの生き方」について話を進めていきたい。
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