最終回】父が忘れていくことを、私は忘れないでいたい

若年性アルツハイマー型認知症の父親が有料老人ホームに入所して1年以上が経った現在、あまのさくやさんは、コロナ禍により父親となかなか面会できずにいます。現在の父親との日々、そして認知症と家族についての思いを改めて綴ります。

※これまでのお話は<こちら>から。

― 2020年9月 父68歳 私35歳 ―

「さくや、いま家?」
「家だよ。お父さんはどこにいるの?」
「えーっと…。おれ、さっきまではアメリカにいたと思うんだけど。いまはどこだっけ」

緊急事態宣言の少し前から、父との面会方法は『iPadを使ってLINEでビデオ通話』に切り替わった。

最近の父は、よくアメリカにいる。

「アメリカのどこ?」と聞くと、父は「ボストン」と答えた。

私たち家族は25年ほど前、父の仕事の都合でボストンに3年間住んでいた。私も小学生のうちの3年間を過ごし、滞在中に弟も生まれ、年の離れた末っ子を家族全員で愛でた。たくさん旅行にも出かけた。家族で過ごしたボストンの記憶は私にも、楽しかった思い出として色濃く残っている。そのボストンに、父は今いるのか。

父が有料老人ホームに入所してから、1年以上が経った。しかし1年前にはいくらでもできた面会が、コロナ禍の現在はかなり制限されている。父と交流する時間はめっきり減ってしまった。

1年前の父は、ここはどこ?という不安を抱きながら過ごしていた。しかし、自分の居場所にピンと来なくとも、少なくとも「アメリカにいる」と答えたことはなかった。

そういう意味では、父の認知症の症状は、1年前よりも進んでいるかもしれない。
だけど父は今、とても元気そうだ。


コロナ禍と父

父の入所した施設では早々に感染症対策を取っていた。2月末に「3月末までは一旦面会禁止とさせていただきます」という連絡を頂いた時は、「なかなか大げさだなあ…。まあ、念のため期間を長めに言っているのだろうな」という印象を抱いたものだった。結果、面会禁止は3月にとどまることなく、制限つきの面会が再開されたのは6月のことだった。

面会禁止となる前から、父はだいぶ施設に慣れてきていたので、私も週に何度も会いに行くことはなくなっていた。それでもさすがに父と一ヶ月以上も会えないとなると、もしかしたら私のことを忘れてしまうのではないか…という一抹の不安があった。
そこで、どうにか顔を見て話すために中古でiPadを購入し、LINE電話ができる環境を慌てて整えた。

はじめのうちはビデオ通話で話していても、父は「早く会いに来てよ」とこぼしていた。しかし数ヶ月もすればお互いにこの交流スタイルにすっかり慣れてしまうもので、父の姉にあたる、伯母の聖美さんと3人でグループ通話をするのが、いつの間にか習慣になっている。

何度目かの通話を経て、少し音が聞き取りづらいことがあり、父にビデオ通話用のヘッドセットを贈った。片耳だけ覆ったイヤフォンとマイクをつける父は、なかなかキマッていた。
「画面越しに見ると、お父さんパイロットみたいだよ。かっこいいじゃん」と私が言うと、
「そう? いま、隣の人に、ディレクターみたいだって言われたよ」と、父はまんざらでもなさそうににやけながら、周囲の人の反応も報告してくれた。

父はいつもラウンジで電話をしている。大声で話していて目立つのか、通話中も周囲の人によく話しかけられていた。
時折見知らぬおばあさんが画面を覗き込んだと思えば、父はいたって自然なそぶりで画面を指差しながら、「これが僕の姉」などと紹介しはじめる。画面を覗かれたこちらは少しだけ戸惑うが、父は嫌な顔もせず動揺もしない。私にとっては見知らぬおばあさんでも、父にとってはご近所さんなのだから当たり前なのだが、父はもう新しい関係を作っているのだと思うと、少し不思議な気持ちがする。

「姉はもう○○歳」
父が、見知らぬおばあさんに、聖美さんの年齢を教えている。しかもやけに数字が正確だ。 聖美さんは笑いつつも少し厳しい口調で「ちょっと。べつにそんなに言って回らなくていい。あんたはいくつになったのよ」と突っ込む。
「え? 僕は67でしょ」父が堂々と言う。自分の年齢は、先月とったはずの歳がカウントされていない。私と聖美さんは笑いながら「ずるい」とツッコむ。本当は68歳なのに、父はなぜかそれを頑なに認めなかった。

◇ ◇ ◇

ビデオ通話で話していると父は、話している相手の居場所がどうにも気になるらしく、数分に1回、1回聞いてはまた聞くような高頻度で「今どこにいるの?」と何度も聞いてくる。

あまりにも何回もやりとりが続くので、私はふと思いついて目の前の紙にマジックで自分の居場所を書き、テレビのテロップのように画面の隅に掲げてみた。「さくやは今…あ、○○か」と父が質問をする前に理解したので、意外と効果はあったのだが、こちらが油断してテロップを下げると、途端にまた聞いて来るのだ。

「いま、どこにいるの?」

少し面倒になって、私が「さあ、どこでしょう」と聞き返すと、父まで面倒くさくなったように言った。

「まあでも、どこにいたって、こうやって三人で話せてるならいいや」

「そうだよ。どこにいたっていいじゃん」
「そうだな」

と言った1分後に父がまた言う。「いま、どこにいるの?」

私は無言でまたテロップを出した。



認知症を不幸な病気だと呼ぶ人へ

以前ツイッターで、話題になったつぶやきがあったのを、今でもたまに思い出すことがある。それは、認知症の父親を亡くした息子さんが、遺品整理の際に、自身の記憶と戦う父親の書き残したメモを見つけて涙が止まらない、という内容をメモの写真つきでアップしていたものだった。

奥さんに叱られながら、忘れていくできごとを必死に書き留めて、苛立ったり喧嘩したり落ち込んだりしながら葛藤した父親の必死な姿がそのメモには現れていた。そのツイートは巨大な反響を呼び、当事者家族もそうでない人も含め多数の声が寄せられていた。認知症のつらさに共鳴するコメントが大多数を占める中、あるコメントが目に入り、無性に私の心に引っかかった。

それは、『認知症はみな不幸になる。早く治療法を確立してほしい』といった内容で、『いいね』も数多くついていた。特に他意も悪気もないだろうし、本音なのだろう。ただそのコメントを見て、ひどく傷ついている自分がいた。

『みな』って一体、誰を指すのだろう。認知症にかかった当事者や、その家族のことも含めて指しているのだろうか?
『不幸になる』という言葉に、そこに落ちたらもう終わり、という抜け出せない穴のような響きを感じた。それなら、そこに落ちた父もツイート主のお父さんも、そしてその家族も、その穴に落ちたが最後、今も不幸のままでいるとでもいうのだろうか?

バカにするなよ。心の中で、思わず牙をむいた。

たしかに、認知症が、つらさや大変さがある病気であることは事実だ。いままでできていたことができなくなる父に、本人も私も家族もみなたくさん苛立ってきて、喧嘩もして、切ない思いもして、特に母は大変なストレスを抱えた。家族は『なんでできないの?』と本人を責めたり、『できなくなったならこっちでやるから』と期待するのをやめようとする。そして本人は『できるのに』と反発したり、『できなくなった』と落ち込む…。本人も家族も、病気とどう対峙すればいいかがわからないときが一番つらいときなのだと思う。

ただ皮肉なことに、その後の症状の進行が、父を少し楽にしたかもしれないことも事実だ。仮に父が元気なときに母のがん宣告を聞いたとしたら、きっと心配で心配で、父までもが体調を崩していたかもしれない。今は母が先に逝ったこと自体の記憶が曖昧で、その喪失感と四六時中向き合わなくて済んでいるとも言える。

すべてにおいて確かさが持てなくなり、暗闇の中にいるような不安に陥る日もある一方で、 最近の父は、自分が落ち着く場所を、精神的にも物理的にもどんどん自ら作り上げているように見える。実際ここ数年は、以前よりも「幸せだ」と口にすることも多くなった。そういう意味では、むしろ父の認知症の進行は、『進化』なのかもしれない、とも思う。
どこにいるのかよくわからないけれど、なんだか心地よい場所にいる気がする。そんな穏やかな幸福感を身にまとう父の言動に、私は幾度となく救われているのだ。

忘れていくことが一番辛いのは本人で、その気持ちを代弁することはできないし、個人差はあるだろう。でも少なくとも今私の目の前にいる父は、到底『不幸な人』には見えないし、私も当事者家族として、認知症が『本人も家族も不幸になる病気』とも思っていない。
状況は変わっていくものだし、大変な時期はあったとしても、私たちは不幸ではなかった。

『認知症はみな不幸になる』—そんなことはないと、父が身をもって教えてくれたことを、私は強調しておきたい。
この先診断を受けるかもしれない誰かが、絶望しないためにも。


時間を記録する

「で、お父さんはどこにいるんだっけ? さっきアメリカにいるっていってたよね?」
ビデオ通話中、私の居場所を何度も聞いて来る父に、私は少し意地悪に数分前の会話を蒸し返す。

すると父は照れ臭そうに、「そうだっけ? そういうことはもう忘れろよ」と言った。

父が何気なく言った「忘れろよ」。私はちょっと笑ったあと、一瞬ハッとした。
振り返ってみれば父は、施設への入所などこちらに都合の悪いところも含め、色々なことを忘れてくれているのだ。そう思うと、こちら側だけがすべてを覚えていて誘導するのも、不公平感があるような気もする。

…と、思ったのもつかの間で、そんな父の言葉も私は、早速今日も書き留める。
確かに不公平だけど、ごめんね。
父は「忘れろよ」と言ったけれど、私はどうしても忘れたくないんだ。

認知症になる前の、バリバリ働いていたギラギラした時代の父の姿は、私にはもうだいぶ思い出しづらくなってしまった。当たり前のようにそこにある風景や会話は、時が経つとあっという間に忘れやすくなる。

2年前まで一緒にいた母が今はもういない。1年前まではできていた普通のことがコロナ禍でたくさん制限されるようになっている。この先、父が私のことを忘れたり、言葉がうまく話せなくなったり、意思表示ができなくなる日は遅かれ早かれきっと来る。あるいは私自身が病気やけがに見舞われることだってあるだろう。目の前の当たり前の風景は、いつの間にかがらっと変わってしまう。

来年の私は、2020年の父を覚えていられるだろうか? 
1年後の父の記憶は、今よりも現実とずれているかもしれない。それでも父がかつて持っていた記憶は、消滅するわけではない。頭の中の引き出しの奥へ、奥へしまわれていくだけ。それをたまに引き出せるように備えておくのは、他ならぬ私の役目だ。写真や動画を撮ったり、記録の方法は色々あるが、私の場合はたまたま日記だった。だから今日も、父の言動と、気になったことを書き留めておく。父が自身のことをわからなくなっても、あなたはこんな人だよと、父にまた教えられるように。

かつて認知症になった父を嫌いになりそうだった頃の自分から、今父と朗らかに笑うことができている現状までを含めたこの記録が、他ならぬ私を、これからもまた救うことになるだろうと思う。

父が忘れていくことを、私は忘れないでおきたい。

まだまだ進化が止まらない父の記録は、今後もnoteにて継続していきます。
今まで読んでいただき、ありがとうございました!

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この連載について

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時をかける父と、母と

あまのさくや

新卒で入社した企業はブラックだった。入社2年目の24歳の時、父と2人でのニューヨーク旅行。なんだか父の様子がおかしい…。父は若年性アルツハイマー型認知症だった。徐々に変わっていく父と、取り巻く家族の困惑。そんな中、今度は母に末期のがん...もっと読む

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コメント

kazumixilog 正直、あまのさくや氏が1番辛そうだったので、今があの頃より楽に生きれてそうで良かったなぁと思います。お若いのに頑張られましたね。これからもよき家族でありますように。 https://t.co/ueReb5EZd6 21日前 replyretweetfavorite

kimuraite 一番困難な時期の記録にも、私はずっと勇気づけられてきた気がする。これから色んなことがあるに違いないけど、大丈夫。そう教えてくれたお話。 21日前 replyretweetfavorite

sorazono |あまのさくや|時をかける父と、母と https://t.co/rRZm4MpfRD 22日前 replyretweetfavorite

inoue_yuzuru ジェットコースターのような日々だけど「温かみ」がある日常だと思う感覚は家族を大事にしてい… https://t.co/fAQtlTmhzR 22日前 replyretweetfavorite