森の中や山の中をひたすら歩いているとき、いつの間にか自分がいなくなる瞬間がある。
10日間の休暇で私は、スイス、イタリアの国境近くの山岳地域へやってきた。山歩きをするためである。その夏は猛暑と、仕事の連勤でとても精神がすり減っていて、待ちに待った休暇だった。
往復5時間の山歩きを予定していた日、朝早く目が覚めたので、急遽予定を変え、山頂付近で5つの湖がみられるという、往復10時間のコースを歩くことにした。山頂付近まで車でアクセスできるので、そのコースを歩く人はほとんどいない。けれど、その行程で何が見つけられるのか知りたくて私は歩いてみようと思ったのだ。それに自分への挑戦のような気持ちもあった。
自分の身体と、大きな存在
空は厚い雲に覆われ、快晴とは言えなかった。道案内は黄色い看板がしてくれる。表記を確かめながら看板から看板へと道順を進める。歩き始めると、次第に頭の中が色々な雑念であふれてきた。何時までに目的地に辿り着けるだろうか。迷ったりしないだろうか。体力はもつだろうか。水は充分だろうか。仕事しんどかったな。なぜあんな言い方をされるのだろう。理不尽に感じる。どう伝えたらわかってくれるだろう...。
けれど、歩き始めてから数時間も経つとそんな雑念も次第に遠のいていき、ただただ歩くことに没頭していった。きつい傾斜が続き、息が上がって、皮膚から汗が滴り落ちてくる。呼吸が荒くなり、鼓動の音は早いリズムで内側に響く。足、太もも、ふくらはぎ、背中、腕、肩、胸、それぞれの筋肉が伸び縮みし、熱くなっている。火照った身体を風が通り抜け、木々がざわめく。普段意識をすることのない自分の身体への感覚が鋭くなっているのを感じた。
さらに数時間歩き続けると、いつの間にか肉体的な苦しさを感じなくなっていることに気づく。仕事、性別、容姿、国籍、名前という肩書がするする剥がれ落ちてゆき、外側から判断される他者からの評価というものから解放されて、ひとつの身体を持った、何者でもないただの人間、それだけになっていた。
「私」というものがどこにもいなくなって、その時、感じたのは気配だけだった。あたたかな土に、揺れる葉に、皮膚を撫でる風に、湿ったにおいに、この大気のなかに潜む無数の気配が、ひとつに溶け合っている。これが、地球というおおきな生命なのではないか。なぜだかそう感じた。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。