(前回からのつづき)
豊太郎の帰国をめぐる費用対効果分析
2つめに考えるべきは、ドイツに留まるか日本に帰国かの二者択一において、豊太郎の損得勘定が働いた点です。損得勘定というと悪意があって公平ではありません。豊太郎が「費用対効果」の分析(Cost-Benefit Analysis)をした、ということです。
1つの意思決定には必ず良い面と悪い面が共存しています。それらを総合的に考えて、意思決定をするのがわたしたち人間です。豊太郎は自分の立場について詳細に費用対効果の検討をして、エリスと別れる決断をしたわけですが、その結論に至るまでに勘案した2つの選択肢の長所と短所は以下のとおりです。
①ベルリンに留まった場合の費用対効果
「ベルリンに留まる」場合の長所は以下の2つが考えられます。
1つは、ドイツという自由な社会で生きていけることです。小説中には「明治廿一年」という年代が出てきますが、それはこの『舞姫』の作品世界が、江戸時代からまだ20年あまりしか経過していない時点の出来事であることを意味しています。明治維新の以前は「家」を基盤に社会が機能していて、代々受け継がれる財産、名前、血縁を結びつけていたのもまた家でした。そして、そうした家を守るための手段として「結婚」がありました。このような前時代のなごりが、『舞姫』が書かれた当時の日本にはたしかに存在していたのです。しかしドイツに留まれば、そうしたしがらみから解放されます。さらには厳格な上下関係がある官僚組織からも自由になれたわけです。
2つめは、エリスとの子どもを育てることができる点です。人生で、子どもをもつ幸せは何物にも代えがたいものです。愛する女性との間に初めての子が生まれ、育てる喜びを味わうことができる。豊太郎も「貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛」と述べていますから、慎ましいながら幸せな家庭を築くことに意欲がありました。もちろん、エリスの健康次第といったことはあったにせよ、です。
他方、短所としては主に3つ挙げられます。
まず、病気のエリスの面倒をみなければならないことです。精神的に病んでいて、一生回復しないことまで作品中でほのめかされています。正常なコミュニケーションもとれず、入院しっぱなしになるかもしれないので、最悪の事態としてはドイツで父子家庭になります。日本でも父子家庭はたいへんなのに、この時代の異国で子どもを育てていくのは非常に困難 なことです。
次いで、経済的な困窮です。豊太郎は優秀な男です。日本で働くとしたら、それなりの金銭を稼ぐことは容易だったでしょう。にもかかわらずドイツで細々と生きることに納得できなかったとしても無理はありません。なにしろ帝大を卒業して、ドイツ語とフランス語に堪能。さらには欧州事情に精通していたわけですから、いくらでも将来は約束されていたはずです。せっかくの立身出世のチャンスを逃すことがどうしてもできなかったと推測できます。
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