仕事を好きになるたったひとつの方法
これは自分でも不思議だったのだが、僕は受験勉強が好きだった。学校の勉強はあんなに嫌いだったのに、中高時代はとてつもない落ちこぼれだったのに、受験勉強だけは好きになることができた。
なぜ好きになったのだろう?
仕事でも勉強でも、あるいは趣味の分野でも、人が物事を好きになっていくプロセスはいつも同じだ。
人はなにかに「没頭」することができたとき、その対象を好きになることができる。
スーパーマリオに没頭する小学生は、ゲームを好きになっていく。ギターに没頭する高校生は音楽を好きになっていく。読書に没頭する大学生は本を好きになっていく。そして営業に没頭する営業マンは、仕事が好きになっていく。
ここで大切なのは順番だ。
人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。
順番は逆で、「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。
心の中に「好き」の感情が芽生えてくる前には、必ず「没頭」という忘我がある。読書に夢中で電車を乗り過ごしたとか、気がつくと何時間も経っていたとか、いつの間にか朝を迎えていたとか、そういう無我夢中な体験だ。没頭しないままなにかを好きになるなど基本的にありえないし、没頭さえしてしまえばいつの間にか好きになっていく。
つまり、仕事が嫌いだと思っている人は、ただの経験不足なのだ。
仕事に没頭した経験がない、無我夢中になったことがない、そこまでのめり込んだことがない、それだけの話なのである。
もちろん、仕事や勉強はそう簡単に没頭できるものではない。
たとえば、没頭のいちばん身近な例といえば、ゲームやギャンブルだろう。
僕も学生時代には、危険なくらい競馬や麻雀にハマっていた。わかりやすい刺激と報酬、そして快感がセットになったギャンブルは、脳科学的に見ても人をたやすく没頭させるメカニズムになっている。近年、ソーシャルゲームにハマる人が後を絶たないのも、同じ理由によるものだ。
しかし、仕事や勉強にはそうした「没頭させるメカニズム」が用意されていない。もともと物事にハマりやすい僕でも、学校の勉強がおもしろくない時期は長かったし、新聞配達のアルバイトなんてまったくおもしろくなかった。
じゃあ、どうすれば没頭することができるのか?
僕の経験から言える答えは、「自分の手でルールをつくること」である。
受験勉強を例に考えよう。前述の通り、僕は東大の英語対策にあたって、ひたすら英単語をマスターしていく道を選んだ。文法なんかは後回しにして、例文も含めて単語帳一冊を丸々暗記していった。もしもこれが英語教師から「この単語帳を全部暗記しろ」と命令されたものだったら、「冗談じゃねーよ」「そんなので受かるわけねーだろ」と反発していたと思う。
しかし、自分でつくったルール、自分で立てたプランだったら、納得感を持って取り組むことができるし、やらざるをえない。受動的な「やらされる勉強」ではなく、能動的な「やる勉強」になるのだ。
受験勉強から会社経営、それに紙袋折りまで、僕はいつも自分でプランを練り、自分だけのルールをつくり、ひたすら自分を信じて実践してきた。会社経営にあたっても、MBAを出たわけでもなければ、経営指南書の一冊さえ読んだことがない。
ルールづくりのポイントは、とにかく「遠くを見ないこと」に尽きる。
受験の場合も、たとえば東大合格といった「将来の大目標」を意識し続けるのではなく、まずは「1日2ページ」というノルマを自分に課し、来る日も来る日も「今日の目標」を達成することだけを考える。
人は、本質的に怠け者だ。長期的で大きな目標を掲げると、迷いや気のゆるみが生じて、うまく没頭できなくなる。そこで「今日という1日」にギリギリ達成可能なレベルの目標を掲げ、今日の目標に向かって猛ダッシュしていくのである。
これはちょうど、フルマラソンと100メートル走の関係に似ている。
フルマラソンに挫折する人は多いけれど、さすがに100メートル走の途中で挫折する人はいない。どんなに根気のない人でも、100メートルなら集中力を切らさず全力で駆け抜けられるはずだ。
遠くを見すぎず、「今日という1日」を、あるいは「目の前の1時間」を、100メートル走のつもりで走りきろう。
「やりたいことがない」は真っ赤な嘘だ
学生たちの集まる講演会で、質疑応答タイムに入る。そうすると、質問者のパターンはおよそ次の2つに分けられる。
まずひとつは、勢いよく手を挙げて「とにかく成功したいんです! これからの時代、どんなビジネスが有望だと思われますか!?」と迫ってくる、野心むき出しの学生。彼らに対して、安易に「答え」を教えることはしない。自分が好きなことをやればいいと思うし、学生ならなおさらそこからはじめるしかないだろう。
そしてもうひとつが「僕はやりたいことがなく、就きたい仕事がありません。この先どうしたらいいでしょう?」という消極的な学生だ。
やりたいことがない。就きたい仕事が見当たらない。はたして、その人は本当に「やりたいことがない」のだろうか? 僕はこんなふうに訊ねる。
「きみ、好きな女優さんはいる?」
「ええっ? まあ……新垣結衣さんとか」
「なるほど、ガッキーが好きなのね。じゃあさ、ガッキーと会ってみたいと思わない?」
「それは、会いたいです」
「じゃあ、どうやったら会えるようになるだろう? たとえばガッキーと共演できるような俳優さんになるとか、ガッキー主演の映画を撮る監督さんになるとか、いろんな道があるよね。それができたら幸せだと思うでしょ?」
「え、ええ。でも僕にはとても……」
「ほら、きみだって『やりたいことがない』わけじゃないんだ。問題は『できっこない』と決めつけて、自分の可能性にフタをしていることなんだよ。別に俳優さんになれとは言わないけど、ちょっと意識を変えてみたらどうかな?」
なるべく話をわかりやすくするため、好きなタレントさんなどを糸口に話すことが多いのだが、言いたいことは伝わるだろう。
海外の旅番組を見ていて、フランスの田園風景が映る。「こんなところに住めたら最高だなあ」と思う。英語に堪能な人を見て、羨ましく思う。自分と同年代のベンチャー起業家に刺激を受ける。
……それでも、これといったアクションを起こさないのは、なぜか?
理由はひとつしかない。
最初っから「できっこない」とあきらめているからだ。
やってもいないうちから「できっこない」と決めつける。自分の可能性にフタをして、物事を悲観的に考える。自分の周りに「できっこない」の塀を築き、周囲の景色を見えなくさせる。
だからこそ、次第に「やりたいこと」まで浮かんでこなくなるのだ。欲望のサイズがどんどん小さくなっていくのである。