恋人を捨てたクズ男こと、『舞姫』の豊太郎をあえて擁護する

光文社新書noteの大好評を博した、恋愛学でおなじみのあの早稲田大学・森川友義教授の連載が9月17日に光文社新書として発売になりました。この書籍化を記念して、cakesでも全文公開してしまいます! 果たして文豪たちが描いた恋は「あり」なのか? 数々の名作を題材に、冴え渡る森川先生のクールな考察をお楽しみください! 賛否両論渦巻く『舞姫』編、スタート!

漱石の『こころ』に続いて取り上げるのは、明治の二大文豪のもう一人、森鷗外の『舞姫』です。

『こころ』は教科書に登場するくらい馴染み深い作品ですが、こちらの『舞姫』もそれに劣らず人気がある短編小説です。『こころ』は1914年に出版されていますが、『舞姫』はさらに時代をさかのぼった1890年に世に出ています。

文語体で書かれた文体はたいへん格調高いのですが、現代人が読むにはいささか難しい作品です。わたしは新潮文庫で読み、理解できない部分は井上靖の現代語訳を参照しました(井上靖訳『現代語訳 舞姫』ちくま文庫)。小説の内容を理解するためなら、現代語訳のみでもまったく問題ないでしょう。

主人公は超エリート官僚

主人公の太田豊太郎は、小さい頃から勉強が得意で、なんと19歳で東京帝国大学法学部を卒業します。希代の秀才ですね。卒業後は、当然のごとく期待されて「某省」に入省します。その省庁は明らかにされていませんが、今でいったら、財務省や外務省といった中央官庁に入って国家公務員になったということです。現実の鷗外は陸軍で軍医総監まで務めた軍官僚だったので、陸軍省と解釈しても問題ありません。いずれにしても将来を嘱望された超エリート官僚です。

22歳のときに、上司の「官長」に気に入られて、政府派遣団の一員としてベルリンに留学することになります。ドイツで3年過ごすうちに、欧州の文化に触れて、しだいに自由を満喫するようになってゆきます。ついには、国家のための小さい歯車の1つとして、官僚組織で受動的かつ機械的に生きる自分に疑問をもち始めます。

そんなある日、教会の隅で泣く少女、エリスに出会います。年齢は16、17歳でしょうか。泣きながら、家が貧乏で、亡くなった父の葬儀代が出せないので助けてほしいと訴えます。不憫に思った豊太郎は少々の金品を与えますが、それが縁で次第にお互いを愛するようになってゆきます。エリスは場末の劇団「ヰクトリア座」のダンサーでした。


相思相愛なのですが、普段から豊太郎を快く思わない知人に、「(豊太郎が)屢々芝居に出入して、女優と交る」と日本大使館に報告されたことが原因で、日本からの留学資金が止められ、官僚を辞めさせられてしまいました。

金銭的に困り果てますが、友人の相沢謙吉の計らいによって、日本の新聞社のドイツ特派員のような仕事を紹介してもらい、なんとか食いつなぐことができるようになります。そして豊太郎は、エリスの家に彼女の母親とともに三人で住むようにもなりました。同棲生活の始まりです。恋人同士ですから、肉体関係も当然あります。やがてエリスは悪阻のような症状が出て、妊娠していることが発覚します。

そんなとき、相沢が秘書官として仕える天方大臣が海外使節団としてベルリンを訪れます(天方大臣のモデルは山県有朋)。その際、相沢が天方大臣に面会できるように手配をしてくれ、大臣は豊太郎に書類をドイツ語に至急翻訳するように依頼します。その仕事ぶりがよかったのか、豊太郎は大臣に気に入られました。

一方で相沢は、エリスとの恋愛を諦めて日本に帰国すべきと豊太郎を説得します。豊太郎はしぶしぶながら「この(エリスとの)情縁を断たん」と約束しますが、とはいえこのままエリスとともにドイツに残るか、それとも相沢の忠告を受け容れて一人で日本に帰国するかという選択で悩み続けます。

このような状況の中、大臣は豊太郎に「われと共に東(日本)にかへる心なきか」と問います。事情を打ち明けるべきか迷いますが、とっさに「承はり侍り(承知しました)」と答えてしまいました。しかし「弱き心」の豊太郎は、そうは言ったものの、その後もどうすればいいかを決めかね、苦悩のあまり倒れてしまいます。

その見舞いのため豊太郎宅を訪れた相沢は、エリスに豊太郎と大臣のこれまでのいきさつを告げてしまいます。実は豊太郎は日本に帰国することに同意したのだと。ショックを受けたエリスは過剰な心労で精神病を患ってしまうことになります。

最終的に、豊太郎はエリスの母親に今後の生計を営むに足るいくばくかのお金を渡し、帰国の途につくところで物語は終わります。

『舞姫』は純粋な恋愛小説である

最初に明確にしておきますが、こうしたあらすじが示すとおり、『舞姫』は恋愛小説です。これ以上たしかなことはありません。

しかしながら、文学研究の世界では、『舞姫』のテーマが何であるかという問題提起がなされています。たとえば山﨑國紀の『鷗外 森林太郎』では次のように述べられています。

さて、『舞姫』は何を物語ろうとしているのだろうか。この問題には現在でもさまざまな捉え方がある。官僚制への批判説。日本近代の脆弱さへの批判、実在のエリーゼ問題を解決し、今後官僚として強く生きていくという弁明、宣言の書であるとする説、また小堀桂一郎氏の言う「彼の西欧文化への訣別の悲しみ」(前掲書)を述べたものとする説など数え切れない。(山﨑國紀『鷗外 森林太郎』人文書院、 90 頁)

文学者という人たちは、みなさんこのように考えるのでしょうか。びっくりします。たしかに『舞姫』では官僚制が批判されていますし、豊太郎は西欧文化に別れを告げ、日本へと回帰しました。しかし、深読みではありませんか。それらを主題とするのはちょっと違うのではと思ってしまうのはわたしだけでしょうか。

わたしは『舞姫』は完全に恋愛小説だと思うのです。豊太郎とエリスとの恋物語です。だから題名が『舞姫』となっているのです。

では、恋愛の何が主題となっているか? ここが考えどころです。『舞姫』が出版された当初から巻き起こっていた「舞姫論争」の主題が、恋愛の知見を深めるうえでもっとも意義があると思われます。その主題の1つとは、

豊太郎は立身出世を捨て、恋愛をとるべきであったか?

でしたが、現代的に考えると、

もしあなたが豊太郎だったら、同じ判断をしたか?

となります。このテーマに沿って『舞姫』を読みとくのが、現代に生きるわたしたちにとってもっとも有益です。なぜなら、わたしたちも豊太郎と同じように、恋愛や結婚に関して二者択一の選択をしなければならない状況に直面することがしばしばあるからです。そのようなときにどうしたらいいかをこの小説は教えてくれます。

豊太郎の選択は正しかったのか、それとも帰国すべきではなかったのか。鷗外は「功名と愛の葛藤」の問題を読者に問うているのだと思います。これは簡単そうで難しい問題です。鷗外は、『高瀬舟』における弟殺しの喜助のように、善悪の判断に苦しむ状況を設定して、後世の読者に宿題を残したのかもしれません。

したがって今回は作品を闇雲に斬ることはしません。鷗外が問うテーマに沿いながら、わたしたちの現在の恋愛に役立てていくというアプローチをとります。

豊太郎はクズ男?

それにしても、この豊太郎、『舞姫』発表当時の文壇でも昨今のweb界隈でも評判は芳しくありません。今日では非難轟々の嵐で、「男らしくない」とか、「汚い」「嫌い」「クズ男」といった言葉までもが躍っています。完全に悪人扱いです。このように考えている人にとって、先ほどの問いへの答えは、もちろん豊太郎はドイツに留まるべきだったということになります。

果たしてそれが豊太郎にとって最良の選択だったのでしょうか。エリスにとっては最良だったかもしれません。でも豊太郎にとっては?

どちらを選ぶにしてもギリギリの選択だったはずです。web上では豊太郎を責める見解が優勢のようですが、わたしとしては納得できません。あまりに一方的です。したがって、ここでは豊太郎を弁護する立場をとってみることにします。

帰国を選んだとしても仕方ないと言える理由は2つ挙げられます。1つは「恋愛市場」の特徴という見地から、もう1つは「費用対効果」を考慮する立場からです。

「恋愛市場」では恋愛関係の解消は自由

『舞姫』における豊太郎の心情を理解するうえでまず知っておくべきは、「恋愛市場」の特性です。恋愛市場とは経済用語ですが、そんなに難しい話ではありません。たとえば職場や飲み会、あるいは学校といったように、男女の恋愛関係が生じる場所が存在しますが、そのような場所のことを経済学では「市場」と呼びます。野菜を売っている市場や株の売買をする市場とまったく同じです。誰も自分が参加しているという意識はないのですが、恋愛市場は24時間365日開いているものです。わたしたちは、好むと好まざるとにかかわらず、また未婚でも既婚でも、この市場に必ず入っています。

恋愛が取引される市場には、その関係の長さによって「恋愛市場」「結婚市場」「浮気市場」の3つに分類されます。

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恋愛学で読みとく文豪の恋

森川友義

名だたる文豪たちが小説に描いた恋ははたして「アリ」なのか? 恋愛学を提唱する著者が科学的に分析し、考察する。漱石が描く片想いは納得いかないし、川端康成は処女にこだわりすぎで、 三島由紀夫は恋愛描写が下手!? 従来の文学研究にとらわ...もっと読む

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