グローバル化とは要は、コピーが蔓延し、それがさらに模倣されてコピーのコピーを生み出し、なにもかもが平準化していくフラットな世界のことです。東アジアの都市を訪れるとその本質がよく見えてくる。二一世紀の世界でどう生きていくかを考えるヒントは、ヨーロッパよりもアジアに隠されているように思います。
コピーというとネガティブな印象を持たれるかもしれませんが、これは単純にいい、悪いといえるような性質のものではありません。グローバル化は悪でローカルな多様性が大事という人は多いけれど、実際には人間の求めるものにそこまでバリエーションがあるわけでもない。手は二本だし足は二本だし、腹減ったらメシを食わなければいけないわけですからね(笑)。その前提のうえで、商業施設や交通機関といった生活の基盤は、どこに行っても同じような形態のものに収斂していくはずです。これは別に悪いことではない。
進むアジアの浄化
次に東南アジアに行くとしたら、ミャンマーでしょうか。仏塔がにょきにょき立っているバガンとかぜひ行きたいですね。つい最近まで軍事国家だったはずが、いまやビジネスで熱い注目を集める場所になり、観光地化も進んでいる。成田からの直行便もビジネス向けに新設され、その後すぐに一般観光客のために増便されました。実態がどこまで変わっているかは見てみないとわかりませんが、東南アジアの変化は概してとても急速です。
一昨年のカンボジア旅行では、シェムリアップという街に滞在しました。ここは、ほんの数年前の旅行記を読むと、売春街として有名で、ストリートチルドレンがそこら中を闊歩していることになっていた。けれどぼくが訪れた頃には、街はすっかり浄化され、ストリートチルドレンもほとんどいなかった。
このような変化を批判するひともいます。浄化を進め、街を清潔にすることは正しいのか。これは東南アジアに限った問題ではなく、二〇〇〇年代以降日本国内、とくに石原都政下の東京でも同じことが議論されてきました。オリンピックの開催が決まり、その流れはより加速するはずです。
これは難しい問題です。むろん、ある場所の「浄化」が別の場所に矛盾を押し込むものなのであれば、これは批判しなければならない。しかし、そもそも浄化そのものがどうかといえば、結論から言うと、ぼくはそれは肯定すべきだと思っています。食料供給の安定や、衛生状態の改善、識字率の向上といったことは、議論の余地がない絶対善と考えるべきです。これに反発し、「むかしの素朴さが失われてしまった」と嘆くのは、個人的なノスタルジーでしかない。
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