夏目漱石『こころ』の先生は、日本文学史上に残る卑怯者である

光文社新書noteの大好評を博した、恋愛学でおなじみのあの早稲田大学・森川友義教授の連載が9月17日に光文社新書として発売になりました。この書籍化を記念して、cakesでも全文公開してしまいます! 果たして文豪たちが描いた恋は「あり」なのか? 数々の名作を題材に、冴え渡る森川先生のクールな考察をお楽しみください! 『こころ』編、完結!

⑤Kが自殺してしまう

5つめのポイントは、Kの自殺です。なぜKは自殺を選んだのか? 視点を先生からKに移して、その意思決定を探ります。漱石はどのように自殺を正当化して書いているのでしょうか?

これが驚くべきことに、漱石による理由の描写はありません。Kの遺書には理由は何も書かれていないのです。単に「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」という抽象的な表現だけでした。遺書に御嬢さんとのことが一切触れられていないので、先生にしてみれば、逆に御嬢さんとの恋愛が原因だと解釈するほかありませんでした。言い換えると漱石は、先生の裏切りによる失恋のせいでKが死を選んだと解釈されることを望んだかのように、自殺の理由については何ひとつ書いていないのです。

しかし、失恋したからといって自殺するなんて行為に及ぶことはありませんよね。なにしろわたしたちは誰でも失恋を経験するものだからです。とくに男性は失恋する動物です。いちいち自殺していたら、命がいくらあっても足りません。そもそも失恋の痛手は時間が解決してくれるのですから、心配はいりません。この世の中に、生命より重要な恋愛というものは存在しないのです。

そもそも1つの人生を選ぶということは、別の人生を選ばないということ。Kの場合、自殺したということは、自殺しない場合に生じたであろう人生を選べなくなってしまったということです。いわば自殺しない場合の人生を損失したのです。

ここで生じる二者択一の問題を経済用語で「機会コストの損失」と呼んでいます。機会コストの損失とは、1つの選択をすることによって、別の選択で得られたであろう利益を失うことを指します。Kは自殺を選んだわけですが、自殺しなかったときに得られた利益はすべて失われてしまいました。Kの場合、機会コストは多大であったと考えられます。なにしろKは先生と同じ東京帝国大学の学生です。当時の帝大生は、現在の東大生とは比較にならないくらいの超エリート。加えて、前述のとおりKは高身長で性格もよく、男らしく、知性にも優れています。新しい素敵な恋愛をすることもできたでしょうし、仏教を究めて偉大な宗教家になることも可能でした。素敵な人生が待っていたはずですが、それをすべて喪失してしまいました。その自殺の理由が、御嬢さんとの恋愛が成就しなかったから、なのでしょう か?

漱石も失恋だけでは自殺する理由として不十分だと考えたのでしょう。小説中で先生は、 ほかの原因、たとえば孤独も原因だったのではないかと思い直したりもしています。しかし、はっきりしたことは作中ではわかりません。漱石はKの自殺の理由をあいまいにし、わたしたち読者は納得のいく説明なしに次の事件へと連れていかれてしまうのです。

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恋愛学で読みとく文豪の恋

森川友義

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