怯えながら歩いた記憶
JR新今宮駅から萩ノ茶屋方面へ歩いていくと「釜ヶ崎」と呼ばれたり「あいりん地区」と呼ばれたり、もう少し広い範囲を差して「西成」と呼ばれたりするエリアに入る。それらのうちでは「西成」という呼び方が自分の中でしっくりくる感覚があり、ここから先はその名を使わせていただきたい。
大阪に西成という場所があることはずっと前から知っていた。読んだ本の中や、大阪の芸人が話すエピソードの中にその地名が登場し、自分の中でイメージが膨らんでいった。有名な職業安定所があり、職を求める労働者たちがたむろしていること。労働者たちによって何度も暴動が起こった歴史があり、その影響もあって近くの警察署はかなり堅牢な作りになっていること。日本有数の色街・飛田新地がすぐ近くにあること。自然発生的にできる市場があって、そこには盗品なんかも平気で並ぶから「泥棒市」と呼ばれていること。そこにいけば覚醒剤をはじめとした違法薬物なんかも手に入るとか、自転車のカゴに使用済みの注射器が捨てられているとか、まるで都市伝説のような話がたくさんあって、大阪の闇の部分の、リアルでシビアなイメージを自分の頭の中に作り上げていく。
「商店街の入り口にドラッグの売人が立っている」「そのあたりでビデオカメラなんか回そうものならぶん殴られ、カメラから何から身ぐるみはがされても文句は言えない」と、そんな話をたっぷり聞かされて行く西成に怯えないはずがない。私が大学生の頃、関西出身の友人に連れられて初めて歩いた西成(といっても、今思えば繁華な動物園前駅のあたりをほんの少し散策しただけだった気がするが)は、自分の普段いる世界のルールとはまったく別の厳しい掟が支配するハードコアな場所に見えた。カメラと財布をリュックの奥底にしまい、そのリュックを背負わずに前に抱えるようにして小走りに移動した記憶がある。
それから何年も経ち、自分が大阪に住むことになってからも西成は相変わらず縁遠い場所だった。実際、わざわざ行く用事があるわけでもないのだ。私の身のまわりの大阪住民の多くも、通天閣や天王寺動物園には用があっても、その先の西成エリアまでは足を踏み入れたことがないという人が多いようだった。子どもの頃から「一人で歩いたらあかん」と親に教わっていたという人もいる。
だけど、よそから大阪に来た者だからこそ、西成を歩き、できる限り町の空気に身を預けなければいつまでも自分と大阪との距離感がずっと開いたままだという気もする。必要があるわけでもないのに怖いものみたさのような感覚で出かけていいんだろうか、という気持ちと、いつまでも西成を歩かずに「大阪に住んでいます」なんて言えるんだろうか、という気持ちがぶつかり、どうしていいかわからない。
有効期限のある居心地のよさ
しかし、大阪に住んでいる人の中でも特に物好きな友人や、大阪に詳しくてよく関東から遊びに来る友人たちは、私にとって驚くほど軽い口調で「今度、西成に飲みに行ってみましょうよ」みたいに言う。「え! 西成に!? 飲みに!?」と内心驚きつつ、驚くのも恥ずかしい気がして「ああ、いいっすね」などと軽く返事をしてみたりして、心の底ではまだまだ怯えながら何度か足を運ぶことになった。
タイミングや歩き方や町との接し方にもよるのだろうけど、そうやってそろりそろりと歩く分には西成は怖い思いをするような場所ではなかった。むしろ、思い切って入り込んでしまえば想像以上に居心地がよく、気を遣わずに過ごせる場所に思えてくる。海に入る時、最初だけちょっと水温に慣れないみたいに、町の空気に身を浸しているとあとはもういつまでも居続けられるような気持ちになってくるのだ。飲み屋でビールやチューハイを飲んで酔ってしまえばなおさらである。でもそれはその日だけしか有効期間を持たないような気持ちで、一度家に帰るとまた緊張する町に戻っている。
西成の酒場の中でも最初の方に名があがる有名店であろう「難波屋」も、いつもちょっとビクビクしながら入るくせに、一杯二杯と飲み進めているうちに「この店こそ自分の居場所」みたいに思えてくる店だ。入口から奥へとL字のカウンターが長く続き、その先にはライブスペースがある。夜の19時になるとそのライブスペースでブルースとかジャズとかフォークとか、その時々の出演者が奏でる音楽が聴こえてくる。ライブ目当てのお客さんは奥に進んで投げ銭を払って間近で音楽を楽しみ、L字カウンターの周りに張りつく立ち飲み客はそれをBGMにして酒を飲み続ける。灰皿は無いからタバコの吸い殻は地面に捨てる。
いわゆるプレーンチューハイなのだが、やけに酔う気がする「難波屋チューハイ」が300円、生ビールはそれより安くて250円。壁にはおつまみメニューの短冊がたくさん貼られていて、200円台が中心。私が好きなのはカウンター中ほどの席、目の前の鍋にいつも入っているカレーのルーと麻婆豆腐。どちらも200円で小鉢にたっぷり盛り付けてくれる。この二つがあればもう十分という量だけど、気になるメニューがたくさんあるからあれこれ食べたくなってしまう。
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