ミケランジェロの名声は、イメージ操作によるものだった?! #1

イタリア・ルネサンスの偉人たちの真の姿に迫る新連載「虚構のルネサンス」。美術史家の古川萌さんが当時の芸術観・アーティスト像をひも解きます。
まずとり上げるのは、《ダヴィデ像》《ピエタ》の彫刻やシスティーナ礼拝堂の天井画などで超有名な、巨匠ミケランジェロ。「神のごとし」とまで言われた名声は、イメージ操作の成果だった!? ミケランジェロ4回シリーズでお届けしていきます。

ミケランジェロ・ブオナローティ 《最後の審判》 1537-1541年 フレスコ システィーナ礼拝堂、ヴァチカン宮殿


ミケランジェロ・ブオナローティ[Michelangelo Buonarroti: 1475-1564]は、イタリア・ルネサンスの彫刻家・建築家・画家・詩人。フィレンツェやローマなど主に中部イタリアで活動し、その作品は《ダヴィデ》《最後の審判》などの代表作を中心に今もよく知られています。さまざまな芸術分野で才能を発揮し、存命中から「神のごときミケランジェロ」と称賛されましたが、ミケランジェロ自身は自分のことを彫刻家だとみなしていたようです。

ミケランジェロは長寿の人です。彼が亡くなったのは1564年2月18日で、そのとき彼は89歳でした。あとわずか半月ほど生きながらえていたら90歳。「人生50年」が普通だっただろう時代に、すごいですよね。いいもの食べてたんでしょうね。ミケランジェロは人生の後半をローマで過ごしたので、亡くなったのもローマの自宅で、主治医と数人の親しい友人に見守られながら息を引き取ったといいます。

ミケランジェロ逝去のニュースは瞬く間に彼の故郷であるフィレンツェにも届きました。時の君主フィレンツェ公コジモ一世・デ・メディチのもとで活動していた宮廷画家ジョルジョ・ヴァザーリは、その第一報を受け取ると、ある計画を実行に移します。すなわち、ミケランジェロの遺体をローマから運んできて、フィレンツェで盛大な葬儀を執り行おうという計画です。

でも、その時点ですでにローマでミケランジェロの葬儀はおこなわれていました。自宅にほど近いサンティ・アポストリ聖堂で、当時の一般的な手続きにしたがって正当な葬儀を執り行った記録が、教会に残っています。どうしてわざわざフィレンツェに遺体を運んでまで、もう一度葬儀をおこなう必要があったのでしょうか。

ミケランジェロ・ブオナローティ《ダヴィデ》1501-04 大理石 アカデミア美術館 (c)Jörg Bittner Unna / CC BY



西洋初の美術学校

フィレンツェでおこなわれた葬儀に関しては、それはそれは詳細な記録が残っています。計画の中心にいたのは、前述の画家ヴァザーリとその盟友であった人文主義者ヴィンチェンツォ・ボルギーニです。人文主義者とは、ルネサンス期に現れた、古代の思想や歴史に関する広い知識をもち、そうした知識を通して神や人間について考察しようとした人々のこと。

ボルギーニは、ミケランジェロの死のニュースを聞くやいなや、すぐにヴァザーリに次のような手紙を書き送っています。

ミケランジェロについては残念です。彼のような人は決して死ぬべきではなかったのです。神が彼を神ご自身の元へ呼び寄せることをよしとしたならば、アカデミアはなにか特別な催しを計画するべきでしょう。

ここで言及されている「アカデミア」とは、前年1563年にヴァザーリとボルギーニがともにフィレンツェで立ち上げた、「アカデミア・デル・ディセーニョ」。「ディセーニョ」とはデッサン、すなわち「素描アカデミー」のこと。じつは、西洋世界最初の美術学校です。当時はアカデミーといえば文学や哲学を学んだり議論したりするものが一般的で、造形芸術に関するアカデミーは非常に画期的でした。もちろん、資金を提供したのはフィレンツェの君主コジモ一世・デ・メディチです。

このアカデミアの創立者であるヴァザーリとボルギーニは、ミケランジェロを「第一のアカデミア会員かつ指導者」と指定し、名誉会員か顧問のように扱っていました。といってもミケランジェロはローマにいたので、特にアカデミアのために何かしたというわけではないのですが……。


立派なお葬式をしたかったワケ

アカデミアは美術の教育をはじめ、若手芸術家の育成や仕事の斡旋、やむを得ず休職する場合の生活補助など、芸術家の生活全般にかかわる活動をおこなっていました。そのなかでも重要視されたのが、会員が亡くなった際にしかるべきやり方で葬儀と埋葬を執り行うという機能です。まだまだ芸術家の社会的な立場が低かった時代、しっかりとしたお墓が用意できない芸術家もいたのです。

したがって、「第一のアカデミア会員」たるミケランジェロに生前の偉業に見合った立派なお葬式とお墓を用意することは、アカデミアの喫緊の課題となりました。それによってアカデミアの活動と、そのスポンサーたるメディチ家のパトロンぶりをプロモートすることができると考えたのです。

そこでヴァザーリとボルギーニは、ミケランジェロの相続人である甥リオナルドを味方につけると、ローマでミケランジェロの遺体を譲り受け、フィレンツェにこっそり輸送し、盛大な葬儀を執行したのです。

計画を練りに練った葬儀がおこなわれたのは、没日から5か月も経った夏の盛りの7月14日。葬儀にあたって教会に施された装飾や著名人による追悼演説は記録され、そのようすを事細かに描写した文章がのちにブックレットとして出版されました。さらに、このブックレットの文章は1568年に出版されたヴァザーリ著『芸術家列伝』の「ミケランジェロ伝」に後半に組み込まれ、伝記の一部をなしています。現在わたしたちがミケランジェロの葬儀のようすを知ることができるのは、この葬儀録のおかげです。

しかし、このような情報を、「細かく記録してくれてる人がいてよかったな」と安易に鵜呑みにしてはいけません。この記録はアカデミアとそのスポンサーであるメディチ家のプロモーションのために執筆されているので、ミケランジェロを過度に祀り上げたり、メディチ家の芸術庇護活動をPRしたりするような記述に注意しながら読む必要があります。そもそもこの葬儀録には、にわかには信じられない非現実的な描写もあるのです。

ここで葬儀録の全文を取り上げることはできませんが、次回はいくつか特徴的なエピソードを取り上げ、そこに込められた執筆者の意図を追ってみます。

(次回「ミケランジェロの葬儀の記録に書かれた驚くべき内容」は10/13(火)更新予定。
お楽しみに!)

この連載について

虚構のルネサンス

古川 萌

ダヴィンチ、ミケランジェロ、ボッティチェリ……「天才」とまつりあげられた偉人たちには、たくさんの逸話や伝説があるけれど、どこかちょっぴり嘘くさい。そこにはイメージ操作や政治的もくろみ、強い野心があったんじゃ……? 大げさ...もっと読む

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コメント

ar_mattsu 面白いー。お葬式がプロモーションになるのね(今もそういうところはあるけど)。言われてみればミケランジェロ長生きだな、と思ったら「いいもの食べてたんでしょうね」で笑ってしまった https://t.co/QZcFeUZclw 24日前 replyretweetfavorite

InfoNursery1 #保育 #こども #知育 2020年10月06日 17時31分 24日前 replyretweetfavorite

HikitsukaMaro 面白い!!((o(´∀`)o))ワクワク https://t.co/OWWsXjUma5 25日前 replyretweetfavorite

shi9et これおもしろい! 25日前 replyretweetfavorite