恋愛学」で夏目漱石『こころ』の謎をとく

光文社新書noteの大好評を博した、恋愛学でおなじみのあの早稲田大学・森川友義教授の連載が9月17日に光文社新書として発売になりました。この書籍化を記念して、cakesでも全文公開してしまいます! 果たして文豪たちが描いた恋は「あり」なのか? 数々の名作を題材に、冴え渡る森川先生のクールな考察をお楽しみください!

さて、最初の文学作品として取り上げるのは、夏目漱石の『こころ』です。名作中の名作であり、現在までに新潮文庫で累計700万部を売り上げた、わが国の文学史上、最高の小説の1つという評価も決して誇大ではありません。本書の冒頭を飾るにふさわしい作品です。

『こころ』はミステリー小説?  

まず知ってほしいのは、『こころ』は、普通の恋愛小説ではありません。恋愛を題材にした「ミステリー小説」と言ってよいくらいのものです。ミステリー小説の醍醐味は作中で事件や犯罪に関する謎が提示され、読み進めるにしたがって次第にそれが解明されてゆくものですが、この『こころ』も、漱石が仕掛ける謎に釣られて最後まで一気に読んでしまうことになるという、恋愛がテーマでありながら恐ろしくもおもしろい小説です。

この小説は、「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部構成となっています。「上 先生と私」からいきなりミステリー仕立てで、東京帝国大学(現在の東京大学)の大学生である主人公「私」が、何の仕事もしていない高等遊民の「先生」に興味をもち、親しくなるにつれて、先生の過去の謎について知ってゆくというストーリーです。

「私」は先生の奥さんに対して「先生は何故ああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」と問うのですが、奥さんも「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」と、どうやら過去になにかしらの事件があったことを匂わせます。

奥さんは美しく、夫婦仲は良さそうなのですが、先生は奥さんと精神的に距離をおいていることが次第にわかり、その点も謎めいたままです。先生自身も恋愛を「罪悪」としながら、他方で「神聖」なものとも呼びますが、どうしてそのように考えるのかについてははっきり語ってくれません。

「中 両親と私」では、大学を卒業した「私」が、病状を悪化させている父のために実家に帰省するのですが、そんな中で先生からぶ厚い手紙を受け取ります。読み始めると「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう」と自殺の予告が書かれてありました。びっくりした「私」は、実の父が危篤状態にもかかわらず、先生のことが心配になり、すぐに東京に向かう電車に乗ってその車中で遺書を読み進めます。

最後の「下 先生と遺書」で、ここまでの謎が解き明かされます。遺書の中で、先生の学生時代(先生も「私」と同じく東京帝国大学の学生)の恋愛がついに語られるのです。そこには、先生が当時下宿していた先の娘であった「御嬢さん」(推定15歳)をめぐる恋がつづられていました。

御嬢さんに恋してしまった先生は、片想いをするだけで気持ちを伝えられないでいましたが、そんな中、経済的に困窮する幼馴染「K」を同じ下宿に誘ってしまいます。そしてKもまた御嬢さんを好きになってしまい、その旨を先生に告白します。Kの「御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられ」て、先生は「すぐ失策まった」「先を越された」と狼狽します。 しかし、先生はKに自分の想いを伝えることができません。

その代わり、先生はKには内緒で奥さんに「御嬢さんを私に下さい」と言い、Kを出し抜いてしまいました。先生と御嬢さんが結ばれるのを知ったKは下宿先の自室で自殺します。 先生は大学卒業と同時に御嬢さんと結婚しますが、Kの死は自分が原因であるとの罪悪感をずっといだき続けてしまうことになり、最終的には、明治天皇の崩御を機に自殺してしまうのでした。

『こころ』を理解するために必要な恋愛学用語

この小説の恋愛描写に関して、読後感としてはすごくおもしろいのですが、同時に、何か釈然としない感は否めません。みなさんも、なぜ先生はあんなに優柔不断なのか、と感じたり、Kも先生も死ぬことはないのに、という感想をいだいたりするのではないでしょうか。

この小説が書かれた時代(1914年)では、先生の行動は納得できるものだったかもしれませんが、令和となった今日では、納得がいかないモヤモヤとしたものばかりです。少なくとも、もう少しシャキッとするチャンスはいくらでもあったでしょうから。

このあたりが『こころ』の不可思議な点ですので、詳しく考察してゆきます。そのためにぜひ知ってもらいたい恋愛学用語がありますので、まずは2つの用語を解説します。

①あなたのことしか考えられない「恋愛バブル」

まず「恋愛バブル」という言葉です。小説の中では、先生にもKにも御嬢さんに対する激しい恋愛バブルが生じています。

相手を好きになるということは、恋愛感情をいだくということ。相手のことが気になる、相手のことをずっと考えている、話がしたい、会いたい、つき合いたいというのはすべて恋愛感情が芽生えたがゆえの兆候です。この際、相手を好きになると、相手の商品価値を上方に修正します。たとえば「この人とずっと一緒にいたい」「別れるなんて絶対にありえない」「一生愛していられる」といった感情をもつようになります。短所ですら好ましく思えてくるという、あばたもえくぼ状態ですね。このようなインフレ感情を、恋愛学では「恋愛バブル」と呼びます。

先生も、御嬢さんの生け花や琴が下手にもかかわらず、嬉々として楽しむようになってゆきます。明らかに恋愛バブルが生じたサインです。

若者の恋愛がどのくらい激しいのかを知ってもらうために、ある調査結果をご紹介します。わたしは早稲田大学で毎年「恋愛学入門」という講義を担当しているのですが、その最初の授業にアンケート調査をしています。その中には次のような質問があります。

Q.ある日突然、恋人の親があなたを訪ねてきます。会ってみると、相手の親が「うちの子と別れてくれ、お金はいくらでも渡すから」と言ったとします。いくらの手切れ金を積まれたら、恋人と別れますか? 0円から1兆円の範囲でお答えください。

みなさんだったら、いくらのお金で恋人や配偶者と別れることができるでしょうか? アンケートの結果、手切れ金の平均値は約3000億円でした。数字の間違いではありません。3000億円!

大学生なので金銭感覚が一般常識からややずれている点を差し引いても、3000億円というのは法外な額です。大企業に就職したサラリーマンの生涯年収でもせいぜい3~4億円程度なのに、桁が3つも違うというのは異常なバブル状態です。

このアンケート結果からわかるのは、とりわけ大学生くらいの若者は、いったん恋愛のスイッチが入ってしまうと、好きな人がすべてとなってしまう感覚に陥るということです。この期間の心理状況はトランス状態に近く、感情のコントロールが効かなくなって、現実とかけ離れた幻想にとらわれてしまいます。ある意味、こうした恋愛バブルは素敵ですね。自分 がそのように思えたら素敵だと思いませんか。ところが、客観的に見ればそれは恐ろしい状態ともなりえます。

なお、この恋愛バブルには2つの特徴があります。

1つには、恋愛バブルの激しさは恋愛経験値と反比例の関係にあります。年齢を重ねて恋愛経験を繰り返すうちに、人は恋愛感情をコントロールする方法を学びますが、若いときは 恋愛経験が少ないので、非常に激しいものになりがちです。先生もKも恋愛経験値は少なく、おそらく初恋であるため、その想いは激情的ですらあります。

もう1つの特徴は、この恋愛バブルは長くは続かないということです。破裂しないバブルはありません。通常、恋愛感情が続くのは1年半~2年くらいです。恋愛のドキドキ感は、恋をすると必ず生じますが、ずっと続くと心臓に負担がかかり健康を損ねる危険性があります。マラソンを走っているのと同じ状態ですね。ずっと走り続けることができないのと同じように、ドキドキ感は長い間は続きません。わたしたちの身体は健康になろうと指向します ので、恋愛感情は時間の経過とともにしだいに消えるように作用してゆくのです。

②飲み会の幹事が解雇につながる「バタフライ効果」

2つめの用語は、「バタフライ効果」です。バタフライ効果とは主として気象学の分野で生まれた考え方で、蝶々の羽ばたきのような小さな動きがより大きな気象にまで影響を与える可能性があるというものです。「風が吹けば桶屋が儲かる」的に、小さな1つの現象が連鎖して、より大きな現象につながってゆくことを指すのですが、この小説に落とし込んで考えると、先生のひとつひとつの小さな意思決定が、最終的にはKと先生の自殺につながってしまうということです。

ちなみに、わたしたちは一日のうちで、何回くらい意思決定をしているかご存じですか?

コーネル大学のワンシンク博士らの研究によれば、食事に関するものだけでも一日で221回の意思決定を行なっているそうで、一日のすべての意思決定を合計すると、おおよそ3万5000回になります

ひとつひとつは小さな意思決定なのですが、その小さな決断はドミノ倒しのようにより大きな現象へと連鎖してゆき、最終的にはKや先生のように、のちの人生に大きく影響を与える場合があります。

たとえば、飲み会の幹事をした→飲み会の相手が最悪だった→飲みすぎて暴れた→翌日会社に遅刻した→仕事でミスした→むしゃくしゃした→他人と肩がぶつかった→ケンカした→ 警察沙汰になった→会社に解雇された、ということもありえない話ではありません。通常なら会社への遅刻は防げましたし、他人と肩がぶつかったときに謝罪していれば問題は起こらなかったでしょう。しかし最悪な場合には、たかだか飲み会の幹事をしたことくらいから連鎖して、会社を解雇される事態もありえるわけです。


つづく


文豪の描いた恋を科学する

この連載について

恋愛学で読みとく文豪の恋

森川友義

名だたる文豪たちが小説に描いた恋ははたして「アリ」なのか? 恋愛学を提唱する著者が科学的に分析し、考察する。漱石が描く片想いは納得いかないし、川端康成は処女にこだわりすぎで、 三島由紀夫は恋愛描写が下手!? 従来の文学研究にとらわ...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tanzania_APTX めっちゃおもろい 10日前 replyretweetfavorite