一故人

山本寛斎—元気の裏に秘めた厳しさ

今回の「一故人」は、ファッションデザイナーの山本寛斎を取り上げます。デヴィッド・ボウイの衣装や多くのショーを手がけ、世界的に活躍した彼の歩みを追います。

震災直後、チェルノブイリへ飛ぶ

ファッションデザイナーでプロデューサーの山本寛斎(2020年7月21日没、76歳)は、東日本大震災の発生からわずか18日後の2011年3月29日、ウクライナのチェルノブイリへ飛んだ。チェルノブイリはその25年前、1986年に大規模な原子力発電所事故が起こった場所である。

震災直後、いつもは元気な寛斎もしばらくは呆然としていた。地震と津波の被害に加え、福島第一原子力発電所で事故が起き、不安が募っていく。そこへ来て、32歳離れた異母弟である俳優の伊勢谷友介がおにぎりをつくって被災地へ走ったと聞き、目が覚めたという。このころには被災地に向けて著名人からの義捐金もあいついでいた。ただ、寛斎は、《どんなにお金があっても、満たされないものがあるはずだ。お金では得られない、しかし生きてゆくのに必要なものをつくりあげることで、私は被災地を応援できるのではないか》と考えた(『上を向いて。』)。そこで彼がまず向かったのは被災地ではなく、先述のとおりチェルノブイリであった。なぜか? 本人は次のように説明している。

《私は何ごとにおいても現場主義で、すぐ現地へ飛ぶようにしている。だが、事態が刻々と変化する「急性期」(病気に罹りはじめた時期のこと)の福島に私が行っても何もできない。それよりも、原発事故のあとで何か起きるか、それまでと何が変わるのか、この目で見て感じようと思ったのだ》(前掲書)

思い立つと、1週間ばかりで慌ただしく準備をして出発する。ウクライナの首都キエフに着いた翌日、バスでチェルノブイリに入り、厳重なチェックを経てようやく原発事故の中心地に到着した。そこでは、事故の起きた原発の4号炉をコンクリートで覆った「石棺」と呼ばれる巨大な建造物のほか展示施設を、現地の案内人の解説を聞きながら見て回った。さらに隣町のプリピャチに移動する。その町は、事故発生後に住民たちが3日で戻れると言われて避難したが、結局25年経っても帰れないまま、完全に廃墟と化していた。案内人からは、靴への放射能の付着を避けるため、道路から外れて草木の茂みなどに入らないよう注意された。その帰途にも何ヵ所もの検問のゲートがあり、放射能の汚染レベルのチェックを受けた。寛斎は、チェルノブイリがいまなお汚染濃度の高い危険な場所なのだとあらためて思い知る。

キエフでは、チェルノブイリから避難してきた住民とその子供たちに会った。住民の集まったアパートの入口には東日本大震災の募金箱が置いてあり、そのなかには日本円で1000円~1万円に相当する高額紙幣が入っていると聞かされる。会ったなかには、「私たちはフクシマのことを知っています。ぜひ、この国に避難してください」と真剣に言ってくれる人もいて、寛斎は胸が熱くなった。

寛斎はチェルノブイリを体感し、《チェルノブイリの「現在」が、そのまま日本の25年後に当てはめられるかどうかは分からない。しかし、チェルノブイリに学び、日本の「未来」を変えていくことはできる》という確信を得た(前掲書)。ただ、ウクライナでは大きな地震は起こらない。その意味では、日本は世界に類例を見ない悲劇を体験したのである。それを乗り越えるには、お手本とすべき教科書はなく、自分たちで考えて、いままでになかったものをつくっていかなければならない。寛斎はそこに自分が半生をかけて取り組んできたこととの共通性を見出した。彼はもともとファッションデザイナーとして世に出た。だが、やがてその枠を超え、音楽や演出などさまざまな要素を盛り込んだ「スーパーショー」という表現形式を通じて、新たな地平を切り拓いていく。彼はそこで培ってきたものを生かして、教科書がなくても新しいものはつくれることを示そうと考えたのだ。

寛斎の行動は早かった。2011年の8月から9月にかけて、その7年前のスマトラ島沖大地震で被災したインドネシアのバリ島を皮切りに、ウクライナのキエフ、そして東日本大震災の被災地である福島県相馬市で、「 天灯 てんとう ―SKY LIGHT」と題する鎮魂のイベントを立て続けに開催した。これは、紙と竹ひごでつくった高さ120センチほどの灯籠に、各地で参加者が火をともし、一斉に空へ飛ばすというものであった。遠く離れた3ヵ所でほぼ同時期に開催するという、そのためにかかる人や資金集め、手続きなどを思えば無謀ともいえる計画だったが、寛斎は言い知れぬ使命感に突き動かされ、これをやり遂げる。

それにしても、こうしたエネルギーはどこから生まれたのだろうか? それを知るためにも、いま一度、その足跡をたどってみたい。

「その服、かっこいい!」の掛け声でつかんだデビュー

山本寛斎は1944年2月、横浜に生まれた。7歳のとき両親が離婚し、高知に引っ越して以降、大阪を経て、小学校高学年で父方の祖母のいた岐阜に落ち着くまで、12回も転校を繰り返した。ちなみに「寛斎」の名は本来「のぶよし」と読むのだが、転校するたび自己紹介で黒板に書いても誰も読めないので、以来「かんさい」で通すようになったという。のちにはパスポートの署名も「KANSAI」とした(『週刊朝日』2012年6月29日号)。

転校先ではいじめられることも多く、引っ込み思案で弱気な性格になってしまう。だが、小学5年のとき、雪合戦で石の入った雪玉をぶつけられたのに怒り、ガキ大将に一人で猛然と立ち向かっていった体験から、自分にも強気があるのだと気づいた。中学1年のときには、生徒会の役員選挙で友達の応援演説を買って出たのをきっかけに、人前に立っても動じない自信と、目立ちたがり屋の性格に目覚める。ここから中学、高校と応援団に所属し、《人を応援して元気を奮い立たせることの快感と、大勢の人を統率することの快感、それから自分が目立つことの快感》を覚えていった(『死にゃしない! OK!!』)。

目立ちたいという思いは、おしゃれへの関心につながっていく。テーラーを営む父を手伝っていたおかげで、中学生のころより自分で服を縫い直したりもするようになっていた。高校時代には、当時流行っていたマンボズボンという細いズボンを真似て、既製服のズボンをミシンで縫い直し、得意になる。このころには父の仕事が上向き、高校卒業後は日本大学英文科に進学できた。上京してキャンパスで見たアイビールック(アメリカの上級階級のスタイル)には強烈な刺激を受ける。同時に東京の女性の洗練された美しさに惹かれ、彼女たちに注目されてモテたいという気持ちも湧き、本格的にファッションにのめり込んでいく。当時人気のあったVANブランドの服などを買うため、テレビ局でアルバイトも始めた。

ただ、ここからファッションデザイナーになるまでには紆余曲折があった。家業が傾きかけ、いったん休学して岐阜に戻り、父の仕事を手伝ったが、半年もすると苦痛になって再び上京する。東京に戻ると、日大の先輩にあたる浜野安宏(のちライフスタイルプロデューサー)の主宰する「造像団(ZOZODAN)」というグループのメンバーとなった。まもなくして浜野が渡米し、代わってファッションメーカーのアドバイザーなどを務めたが、うまくいかない。中途半端な現状を省みた寛斎は、このままではいけないと思い、20歳でデザイナーになる決意をする。

そのために大学も中退すると、デザイナーのコシノジュンコや細野久に師事し、服を縫う針子として修業を重ねる。テレビ局でのバイトとくらべると収入は激減し、生活費を切り詰めながら、朝から晩まで縫い続けた。さらに夜遅くに帰宅すると、寝る間も惜しんでデザイン画を描きまくる。新進デザイナーの登竜門であった装苑賞をめざしてのことだ。月に1度の同賞に毎回作品を応募し、3ヵ月後には初めて最終公開審査まで残った。このときは仮縫いでの失敗もあり、受賞を逃す。それでも応募を続け、1967年、ついに賞を手にした。このときの最終公開審査では、モデルが自分のつくった服を着て舞台に出てくるや、「その服、かっこいい!」と叫んだという。受賞できたのは応援団で鍛えた大声のおかげだと、寛斎はのちのちまで信じて疑わなかった。

世界の「10人のなかの一人」ではなく1位になる!

念願の装苑賞を受賞したものの、それからしばらく寛斎はスランプに陥る。まだ自分の世界を確立する前に受賞してしまったのが災いしたのだ。受賞時に勤めていた既製服の会社では、自分のつくりたい服をつくれず、平凡なデザインを要求された。それが不満で、弟たちと自前で服をつくって売り出す計画を立てるも、デザインに縫製技術がともなわず失敗に終わる。

それでも自分のデザインを考えるためのアンテナは常に張っていた。そこへ飛び込んできたのが、アメリカのヒッピーたちを撮った1枚の写真だった。生き方もファッションも既成の価値観にとらわれない彼らのスタイルに、寛斎はカルチャーショックを受ける。自分がこれまでやってきたことが堅苦しく、色褪せて見えたのだ。もっと自由な服をつくろう! そう思い立つと、ネクタイをきっぱりやめ、髪型もロングからアフロヘアに変えた。そしてヒッピースタイルを自分なりに研究して服をデザインし、それを自ら着て街へ出た。多くの人からは否定的な眼差しを向けられたが、彼はまったく気にならなかった。人々の視線の奥に羨望の色を感じたからだ。

1968年には、開店まもない渋谷西武の「アバンギャルド・カプセル」という先鋭的なファッションのコーナーに、「やまもと寛斎」のブランド製品がデパートでは初めてディスプレイされる。人生初の海外旅行でロンドンに赴いたのは、その翌年だった。ファッションの最先端だったキングスロードを歩いていると、寛斎の出で立ちに驚いた店員たちが表へ飛び出してきて、「ファンタスティック!」「ビューティフル!」と声をかけてきた。このあと行ったアメリカでも同様だった。

翌1970年、ニューヨークへ行った帰途に再びロンドンに立ち寄る。このとき、アフロヘアに蛇革のスーツという姿で歩いていたところ、スタジオに連れていかれ、写真を撮られた。これがアメリカのグラフ雑誌『LIFE』に「世界のかっこいい10人の男」の一人として掲載される。それでも寛斎は、まだ「10人のうちの一人」にすぎないと満足しなかった。自分がめざすのは世界で1位を取ることだと考え、そのためには自分なりの美学をつくり、世界に一人しかいない山本寛斎を出すしかないと思いいたる(『週刊朝日』2012年6月29日号)。ここから新たな挑戦が始まった。

ロンドンでの絶頂からパリで奈落に転落

寛斎は1971年1月に「株式会社やまもと寛斎」を設立すると、5月には日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催した。それまで彼は、海外で評価されるのに、日本では奇異な目でしか見られないというギャップに、どうやったら正当に評価されるのかずっと悩んでいたという。ちょうどそのころ、アントニオ・ロペスという同年代のイラストレーターが来日し、会う機会があった。ロペスにどうやったらインターナショナルになれるのかと訊ねたところ、「ロンドンに住め」との答えが返ってきた。そこから、どうせならロンドンでショーをやろうと思い立ったという。

このとき寛斎に先駆けて現地に飛び、準備に奔走してくれたのがスタイリストの高橋靖子である。高橋は日本では数少ない寛斎ファッションの理解者で、英語も堪能だった。彼女は仕事でつきあいのあった伊丹十三からロンドン在住の俳優マイケル・チャウを紹介してもらい、協力を仰ぎながら、会場と出演モデルを押さえた。残すは音響設備だけとなったとき、一時帰国する飛行機で偶然にもソニー社長(当時)の盛田昭夫と乗り合わせる。トランジットのタイミングで盛田に直談判すると、現地の社員に協力するよう伝えておくと快諾を得た。

一方、寛斎はショーの開催にあたり、欧米人にはつくれないものは何かと考えた。そんな折、歌舞伎を初めて観る機会があり、衣装を観客の眼前で一瞬にして変化させる「引き抜き」や、着物の鮮やかな柄の裏面を見せる「ぶっ返り」といった技法に目を奪われる。これを使えば、服をドラマティックに見せることができる!—そうひらめくと、さっそくショーで採り入れることにした。本番では、歌舞伎の囃子をアレンジした三味線の音楽が開幕を告げると、シンと静まった会場に2人のモデルが現れる。彼女たちは上着としてまとっていた水色の布をパッとはねのけ、裏返すと原色の花柄が飛び散るように現れた。これには観客からどよめきに続き、拍手が沸き起こる。このあとフィナーレまで会場は興奮のるつぼと化した。

その後も国内外でショーをあいついで開催し、話題を呼ぶ。1973年には、イギリスのロックミュージシャン、デヴィッド・ボウイがニューヨークでのコンサートで、衣装はすべて寛斎の作品をまとってステージに立った。このときスタイリストを務めたのは高橋靖子で、本番ではヘアメイクの女性とともに黒子になり、ボウイの着た黒いビニールの衣装をロンドンでのショーと同様に引き抜いてみせた。高橋から前日に国際電話で呼び出され、日本から駆けつけた寛斎は、客席の最前列でその様子を観て、感激のあまり涙がボロボロとこぼれたという(『寛斎 鉄丸 全行動』)。このコンサートを機に彼はボウイと親しくなり、アメリカでのビジネスチャンスをもつかむことになった。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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