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父のハミング
― 2019年 父66歳 私33歳 ―
父は昔から、ちょっとした沈黙があると、ハミングをするクセがあった。中学生くらいまでの私は、路上で「トゥトゥトゥーティティーティー🎵」とでたらめなハミングをする父が無性に恥ずかしくて、「歌うのやめて!!」とよく抗議していた。私が嫌がるほどに意地悪をしてなかなかやめてくれない父に、本気ですねたこともあった。
思えば父のハミングは、家ではあまり聞かなかった気がする。開放的な気分もあいまっていつも外でしていたのか、あるいは誰かに父の歌が聞かれるのが恥ずかしくて、外出中のことばかりよく覚えているのだろうか。
最近は父とどこかに外出するような余裕もなかったが、通院のため、久しぶりにタクシーで一緒に出かけた。そのタクシーでの沈黙の合間に、相変わらず原曲もない変なハミングが聞こえてきた。数年経った今でも、父のハミングは変わらない。
父と一緒に家を出て、目的地へ向かう。今まで当たり前だったこんな日は、この先あと何回あるのだろうか?
そう思うと、あんなに嫌だった父のハミングがやけに懐かしく響き、私はしばらく耳をすまして聞いていた。
もうすぐ父は老人ホームに入所する。わたしは父と一緒に暮らさなくなるのだ。
父と老人ホーム
「さて、どっちがいいだろうね…」
父の入所施設をいよいよ決めようという兄弟会議で、私はまだ迷っていた。
いくつもの施設を見学した末、最終の候補は施設Aか施設Bかの2択にまで絞られていた。
施設Aは、最先端の認知症トレーニングやリハビリ機器を採用しており、何から何までハイスペックで、なんとコンシェルジュと呼ばれる人までいる。まるでホテルのような暮らしができる、老人ホームらしくない雰囲気がそこにはあった。日次的にその日の様子をアプリから報告してくれる仕組みまであるという。
施設Bは、きれいではあるが比較的オーソドックスな老人ホーム。施設長が見学対応をしてくれて、現場の様子をメリット・デメリット含めて正直に語ってくれた。スタッフさんの様子からも、人情的な雰囲気がある施設だと思った。
60代の父を老人ホームに入れるのがかわいそうだという気持ちが拭いきれない私には、一見老人ホームらしくない暮らしができる施設Aが魅力的に見えた。父の認知症の抑制にアプローチするトレーニングができる点もいい。しかし施設Aの方がBよりも利用料が高額なのはネックだった。
この先父が何年間元気でいられるか。それは今後の入居年数に関わり、費用面に大きく影響する。兄と弟は施設Bを推しており、私もBが有力とはわかりつつ、父をできるだけ刺激の多い場所に置くことで認知症の進行を抑えられないものか、というわずかな希望を諦めきれずにいた。話は平行線を辿る。
そのとき、兄が口を開いた。
「母なら多分、もったいない!Bでしょ!って、言うだろうな」
兄は、「なんか昨日、母がおりてきた」と続けた。
ふだん現実的な兄からは意外な言葉だった。と同時に、たしかに母はそう言いそうだと、強く納得した。兄を介して入った母の代理票で、今まで迷っていたのがうそのように瞬間的に、私もBだと思えたのだ。
そうして父の入所先は、施設Bに決まった。
ようやく決断できた頃には、すでに6月も終わりにさしかかっていた。
引越しまでのカウントダウン
夏が近づくほどに、父の体調には翳りが見えはじめた。ソファやベッドから自力で立ち上がりづらくなるなど、身体機能も低下しつつあった。以前より食が細くなり、デイサービスでの昼食もあまり食べていないという報告を受けるわりに、健診ではコレステロール値が高いと言われる。父の食事を手配している身としては、少し責任を感じてしまう。
手続きが想定よりも遅れたおかげで入所日も先延ばしになってしまい、「もう夏になってしまった!」と、私は少し焦っていた。在宅介護よりも丁寧なケアを施してくれるであろう、安全な施設に1日も早く入所させたほうがいいのはわかっている。
だが一方で、少しだけホッとしている自分もいた。いよいよ父と暮らさなくなる日が近づいていると思うと、引っ越しまでのカウントダウンは日増しに私を寂しくさせたのだ。
いよいよ迎えた引っ越し日の前日。兄弟で荷造りをする約束だったので、出先からスイカをひと玉買って帰ると、弟がカレーを作ってくれていた。そういえばお葬式の後も弟がシチューを作ってくれていたっけ。
みんなでカレーを食べてから、えいやっと一気に荷造りをする。洋服や本などの小物と少しの家電。家具は、テーブルと椅子や本棚のみ。そんなたいそうな荷物でもないと思ったけれど、自家用車に無理やり詰めると、運転手以外誰も乗れないほどにパンパンになってしまった。父は、自分の引っ越し作業をしているとは特に思ってもいないようで、いつも通りテレビを見ていた。
作業がひと段落した後、もう寝ようとしていた父にスイカを食べようと誘った。私にはめずらしくひと玉まるごと買ったので、切り方がわからず変な形になってしまった。
「このスイカ、あまり甘くないね。塩かけると甘くなるんだっけ?」と弟が言い出す。
今まで塩をかけてスイカを食べたことはなかった。弟が試し、私も恐る恐る試し、父も真似をした。
私は塩を集中的にかけすぎて、思わず「しょっぱ!」と叫んだ。弟は「これ、結構かけた方が甘くなるわ!」と興奮している。父は「なんだか変わったことしてるな」といいながらも自分も塩をふり、特に美味しいのか美味しくないのかの判断がつかないような顔でスイカを平らげた。
今目の前にいる父がスイカを食べている、その「普通」の光景を、私は目に焼き付けたくなった。
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