この日も暑かった。「六郷土手」に到着して、涼しい電車を降りると、まだ午前十時なのに、ムッとする大気。照りつける太陽。表を歩いている人の六割が眉の間にシワを作っている。
駅から目的温泉はすぐだった。駅前といってもいいだろう。
大通り沿いに「六郷温泉入口」の看板が出ているのだが、そこに、「一日御静養」と書き添えてあるのが、昔っぽくて嬉しい。昔の人はただキャッチーなだけではなく、ジーンと味わいのあるようなことを言う。コピーライターの時代以前のセンス。
だけどその横の看板の、いろんな能書きは太陽光による退色と、風雨によるペンキの剥離、さらに看板のサビが加わって、ほとんど読めない。真ん中辺に「北欧風サウナで、疲れをさっぱり」とかろうじて判読できる。北欧風。
入口はけっこう新しく直してあって「六郷ゆ温泉」と、玄関上にドーンとプラスティック看板がかかっている。
入浴料四五〇円で、遠赤外線サウナ無料は嬉しい。
「スポーツ・散歩・お仕事のお帰りに…お気軽にどうぞ。好評手ぶらセット\二六〇」これも安い。
さらに「ランナーズ銭湯(着替えOK)ランニング前のロッカー利用可(入浴料四五〇円のみ)」。おお、ここもやっているのか。そうか、多摩川が近いから、ランナーも多いんだな。神保町の「梅の湯」は、夕方の六時から七時は皇居ランナーに占拠される。前に行ってビックリした。
さて、入るとフロント式。お金を払って、男湯のほうに入ったが「貴重品は必ずフロントへお預けください」という貼り紙を見て、慌ててサイフなどを預けに、フロントに戻った。
実はこの夏、サイフを立寄り湯のロッカーに忘れ、置き引きされてなくしたのだ。痛い目にあっているので、まだビクビクしている。それに知り合いが、大田区内の銭湯でロッカー荒らしに現金六万円盗まれた話を聞いたばかりだ。本当にいるんだと思った。安全ボケしている。
しかし驚いたのは、入った十時五分、男湯満員。始まったばかりなのに。そんなに大きくない浴場だが、三十人ぐらい入っている。
洗い場のカランは何とか確保できたが、椅子がない。しかたなく、タイルに直尻(じかじり)で座る。ちょっと抵抗があったが、そういう人も何人かいる。すごいな。平日だし、さすがに、やっぱり、年寄りが多いが、皆元気な感じ。ほとんど常連のように見える。
からだをざっと洗って、立ち上がり、浴槽のところに行く。湯を見ると、かなり黒い。手を入れるとかなり熱かった。からだを慣らそうと思って、まず「低温風呂」と書いてある、誰も入ってない透明の湯につかる。たぶん水道水を沸かしたものだろう。普通に気持ちがいい。
サウナに入っている人も多い。こんな午前中から、年寄りがサウナ。逆年寄りの冷や水ではないか。いや、朝五時頃起床する人々にとっては、十時はもう真昼なのかもしれない。ボクにはまだ朝だ。
低温風呂を出て、少し休んで、黒湯に入ってみた。我慢できるが、やっぱりかなり熱い。黒くて底が見えないのに、かなり深くてちょっと、おっとっと、となった。じっとしていると、足や手の指の爪が痛くなる感じの熱さ。わりと短めに切り上げ、全身石鹸で丁寧に洗う。
それで、今度はサウナに入る。誰も入っていなかった。上下二段で6人ぐらいしか入れないけど、しっかりサウナ。あの温泉ホテルを思い出す。汗が滴り落ちてくる。でも、あんまりがんばらないで、砂時計で十分弱。最後まで誰も入ってこなかった。
出てみたら、浴場内がガランとしている。五、六人しかいない。もう出たのか。まだ十時半少し過ぎたところだ。みんな早く来て早く帰る。なんだか、朝風呂だ。本物の朝ブラーあるいは朝ブリストは、こういう感じなのだろうか。
考えてみたら、朝から長湯なんてしてたら、一日ダレそうな気もしてきた。気のせいか。
よし、シャッキリしようと思って、水風呂に入る。水風呂といっても、ここの水風呂は源泉で、真っ黒だ。気合いを入れて入ったら、これが意外に冷たくない。いや、温度的には完全に水なんだけど、物凄く冷たくは、ない。そして物凄く気持ちがいい。なんだろうこれは。今まで入った水風呂の中で一番気持ちがいい。肌の感触もいい。冷たさも心地よい。これはいい。誰も入ってこないことをいいことに、いつまでも入っていた。こんな水風呂の長湯ならぬ長水初めてだ。
ふと気がついた。プールだ。これは夏のプールの気持ちよさだ。外は完全な夏日だ。風呂の中も明るい。天井が高い。温泉水水風呂、最高!
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