第十回】六郷温泉と冷やし中華 (後編)

ようやく今回の舞台の六郷土手に着き、駅近くの銭湯に向かう。朝から長湯なんてしてたら一日ダレそうな気もすると水風呂に入ったら、「今季最高の気持ちよさかもしれない」と言わしめるほどの心地よさだったそう。冷やし中華とビールで締める、夏の終わり。「孤独のグルメ」でお馴染みの久住昌之氏がおくる、「風呂」×「グルメ」の痛快エッセイです。

 この日も暑かった。「六郷土手」に到着して、涼しい電車を降りると、まだ午前十時なのに、ムッとする大気。照りつける太陽。表を歩いている人の六割が眉の間にシワを作っている。
 駅から目的温泉はすぐだった。駅前といってもいいだろう。
 大通り沿いに「六郷温泉入口」の看板が出ているのだが、そこに、「一日御静養」と書き添えてあるのが、昔っぽくて嬉しい。昔の人はただキャッチーなだけではなく、ジーンと味わいのあるようなことを言う。コピーライターの時代以前のセンス。
 だけどその横の看板の、いろんな能書きは太陽光による退色と、風雨によるペンキの剥離、さらに看板のサビが加わって、ほとんど読めない。真ん中辺に「北欧風サウナで、疲れをさっぱり」とかろうじて判読できる。北欧風。
 入口はけっこう新しく直してあって「六郷ゆ温泉」と、玄関上にドーンとプラスティック看板がかかっている。
 入浴料四五〇円で、遠赤外線サウナ無料は嬉しい。
「スポーツ・散歩・お仕事のお帰りに…お気軽にどうぞ。好評手ぶらセット\二六〇」これも安い。
 さらに「ランナーズ銭湯(着替えOK)ランニング前のロッカー利用可(入浴料四五〇円のみ)」。おお、ここもやっているのか。そうか、多摩川が近いから、ランナーも多いんだな。神保町の「梅の湯」は、夕方の六時から七時は皇居ランナーに占拠される。前に行ってビックリした。
 さて、入るとフロント式。お金を払って、男湯のほうに入ったが「貴重品は必ずフロントへお預けください」という貼り紙を見て、慌ててサイフなどを預けに、フロントに戻った。
 実はこの夏、サイフを立寄り湯のロッカーに忘れ、置き引きされてなくしたのだ。痛い目にあっているので、まだビクビクしている。それに知り合いが、大田区内の銭湯でロッカー荒らしに現金六万円盗まれた話を聞いたばかりだ。本当にいるんだと思った。安全ボケしている。
 しかし驚いたのは、入った十時五分、男湯満員。始まったばかりなのに。そんなに大きくない浴場だが、三十人ぐらい入っている。
 洗い場のカランは何とか確保できたが、椅子がない。しかたなく、タイルに直尻(じかじり)で座る。ちょっと抵抗があったが、そういう人も何人かいる。すごいな。平日だし、さすがに、やっぱり、年寄りが多いが、皆元気な感じ。ほとんど常連のように見える。
 からだをざっと洗って、立ち上がり、浴槽のところに行く。湯を見ると、かなり黒い。手を入れるとかなり熱かった。からだを慣らそうと思って、まず「低温風呂」と書いてある、誰も入ってない透明の湯につかる。たぶん水道水を沸かしたものだろう。普通に気持ちがいい。
 サウナに入っている人も多い。こんな午前中から、年寄りがサウナ。逆年寄りの冷や水ではないか。いや、朝五時頃起床する人々にとっては、十時はもう真昼なのかもしれない。ボクにはまだ朝だ。
 低温風呂を出て、少し休んで、黒湯に入ってみた。我慢できるが、やっぱりかなり熱い。黒くて底が見えないのに、かなり深くてちょっと、おっとっと、となった。じっとしていると、足や手の指の爪が痛くなる感じの熱さ。わりと短めに切り上げ、全身石鹸で丁寧に洗う。
 それで、今度はサウナに入る。誰も入っていなかった。上下二段で6人ぐらいしか入れないけど、しっかりサウナ。あの温泉ホテルを思い出す。汗が滴り落ちてくる。でも、あんまりがんばらないで、砂時計で十分弱。最後まで誰も入ってこなかった。
 出てみたら、浴場内がガランとしている。五、六人しかいない。もう出たのか。まだ十時半少し過ぎたところだ。みんな早く来て早く帰る。なんだか、朝風呂だ。本物の朝ブラーあるいは朝ブリストは、こういう感じなのだろうか。
 考えてみたら、朝から長湯なんてしてたら、一日ダレそうな気もしてきた。気のせいか。
 よし、シャッキリしようと思って、水風呂に入る。水風呂といっても、ここの水風呂は源泉で、真っ黒だ。気合いを入れて入ったら、これが意外に冷たくない。いや、温度的には完全に水なんだけど、物凄く冷たくは、ない。そして物凄く気持ちがいい。なんだろうこれは。今まで入った水風呂の中で一番気持ちがいい。肌の感触もいい。冷たさも心地よい。これはいい。誰も入ってこないことをいいことに、いつまでも入っていた。こんな水風呂の長湯ならぬ長水初めてだ。
 ふと気がついた。プールだ。これは夏のプールの気持ちよさだ。外は完全な夏日だ。風呂の中も明るい。天井が高い。温泉水水風呂、最高!

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ふらっと朝湯酒

久住昌之

三度TVドラマとなることが決定した「孤独のグルメ」の原作者久住昌之が、新たに提案するのが“ふらっと朝湯酒”。その名の通り、朝からお風呂入って一杯飲るという試みを、やってみようというエッセイである。朝から飲むからって、♪朝寝朝酒朝湯が大...もっと読む

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