次郎長はやくざになった。やくざ、博奕打ちのことを当時、無職《ぶじょく》、と謂った。無職、と書いて「むしょく」ではなく、「ぶじょく」と訓むのである。
文字通り職業がない、つまり正業に就かず生活する人、ということで、そういう意味ではこれを書いている自分なんかも謂わば、「ぶじょく」なのではないかと思ってしまう。
それはまあよいとして、じゃあ次郎長はどうだったかというと、次郎長には米屋という正業があったから、そういう観点から見ると次郎長は、おかしな言い方だが、本職の無職、ではなかった。
しかし博奕場を経営して多くの乾分を養い、客人を泊めながら、その一方で表向きの稼業《しょうばい》を持つ親分も多かったから、正業があるから本物のやくざではない、とは必ずしも言えないが、この頃の次郎長は自分の賭場を持って寺銭・カスリをとったり、親分乾分がある訳でもなかったから、本職のやくざ、とは言えなかった。
じゃあなんなのか、と言えば、
身ヲ遊侠ニ投ジ専賭博ヲ事トシ酒ヲ飲ミ力ヲ角シ以テ快楽ト為ス
という生活ぶりを見て周囲の者が、「あいつあ、すっかりやくざだよ」と批判的に言い、当人もまた意気がって、「おらあ、やくざだ。なめるなよ」みたいな態度を取っていたのだろう。主観的なやくざ、つか。
まあこういうことは現代にもいくらもあって、例えばちょっと一週間ほどバイトして簡単な手伝いをしただけなのに、「おれっち大工だからよー」と嘯いて腰袋をファッションに取り入れたり、短文を書いてアップロードしただけで、「最近は私も文士だよ」と言って和服で生活する、みたいな人を時折見かける。ようするに「なりきりなんやら」「なんちゃってなんやら」ってやつである。
ということで、天保十二年から十三年にかけては後年、海道一、と言われた大親分、清水次郎長もそんなであった。
ところがここにこひとつの事件が起こった。
天保十三年六月、次郎長が家で仕事をしていると、駿府に住む金八という男がやってきた。金八は次郎長の博奕仲間である。となると用件は決まっている。裏の木戸から入って金八は奥の間に居た次郎長に言った。
「おいっ、矢部の平吉のところでおもしろいことをやってるんだが、ちょっとばかし行かねぇかい」
言われた次郎長は答えた。
「なにい? おもしろいことをやってるから行かねぇかあ? 戯談言っちゃいけねぇ。こっちは堅気の商売人なんだよ。昼間っから博奕場なンどに出入りできるわきゃねぇだろうがっ。行こう」
「がくっ。って口で言っちゃたじゃねぇか。行くのかい?」
「ああ、行こう。走って行こう」
なーんて好きな道なものだから次郎長、店もなにも放っぽらかしてそそくさ出て行く。その後ろ影を見送って、袂で目頭を押さえる慈母もなければ、叱言を言う厳父もない、次郎長はやりたい放題なのである。
平吉の家は北矢部の畑の中にポツンとあった。なんの変哲も無い百姓家で、あたりに人影はない。これがちょっと前から博奕宿になっている。
黙って中に入ると、薄っ暗い家の中、土間からあがって板戸の奥、狭っ苦しい部屋に六人の先客、武五郎、佐平、富五郎、千吉、長伝、乙松がいた。うち武五郎は、武州嘉吉っあんの乾分、佐平は沼津金の乾分、千吉は和田島の太左衛門の乾分、身体が小さいので皆に、小富、という渾名で呼ばれていた富五郎は武州七の乾分、とそれぞれ本職の博奕打ちであった。
次郎長は連中をじろっと見て、
「遊ばせて貰いますぜ」
と低い声で言って中に入る。
「ああ、遊んで行きねぇ」
とこれまた小さな声で平吉が言って、さあ、勝負が始まった。
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