前回は、論争からはさっさと降りた方がたいていの場合はお得になるってお話を書きました。
前提となる「常識」が実はバラバラだからです。
アインシュタインは、「常識は18才までに身につけた偏見のコレクションだ」といったそうです。
本当に人がわかり合うのは難しいと思う。
SNSでは相変わらず論争が繰り広げられています。目まぐるしく常識がアップデートされ続けている中、インターネットは異なる価値観の人たち全員の集合場所を不用意に作ってしまったようです。
1990年代に育った人と、2000年代に育った人の感覚はかなり違う。私だって、80年代当時のノリで発言したら、大炎上すると思います。当時の「当たり前」ってそれほど今と違ってた。
育った場所によっても常識は変わる
時代によってだけではなく、育った環境によっても常識は変わります。
マレーシアでは、メディアが言語ごとに分かれていて、マレー語・ヒンズー語・英語・中国語それぞれの新聞・テレビがあります。情報源が違うので、認識している情報も違うのです。
なので、何か書くと、「私の見ているマレーシアは違います」と指摘を受けることがあります。そしてその度に「なるほどな」って思います。教えてもらえないと、自分の見えてる世界=マレーシアって思い込みがちなんですね。行動範囲を幾ら広げても、一人の人に見えてる世界はわずかです。
さらに、世の中にはいくら理解しようとしても、理解できない人たちがいることを知りました。
例えば、生まれたときから宗教の規範の中で生きている人たちの気持ちはたぶん一生わからない。「自分にわからないことがある」って認めるようになりました。
実は、日本でも同じなんじゃないかなぁ。 最近noteではこんな記事が話題です。
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