碁の打ち方に表れた本業での流儀
任天堂社長として、ファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめ多くのゲーム機やソフトを世に送り出してきた山内
ゲームもしなければ、1992年より米メジャーリーグのシアトルマリナーズのオーナーを務めながら野球にもそれほど関心のなかった山内にとって、ほぼ唯一の趣味は碁だった。碁を覚えたのは、任天堂の社長となってまもない23歳のとき。いちばん強くなったのは27~28歳の頃で、アマチュアの県代表に挑戦してみようかとも思っていた矢先、会社の業績が低迷し、碁どころではなくなってしまったという。
しばらくして経営危機を脱すると、山内はまた碁を打つようになる。日本棋院京都本部長だった大石清夫は、《山内さんの碁は、右向けといえば意地でも左を向く碁ですね。素直でないところがあります。よい意味では、それが反発心となって力を発揮します》と評した。これに本人は、《右向けと言われて右を向くのが本能的に嫌いなんです。それが碁の面では奇をてらう手を打ちすぎたり、変なところでがんばりすぎたりして、自滅するところがありますね》と付け加えている(『Forbes』1996年11月号)。
山内の碁の打ち方は、本業での流儀そのものであった。《山内溥という人は、何にこだわっていたか。『娯楽はよそと同じが一番アカン』ということ》と語ったのは、現・任天堂社長の岩田
「よそと同じが一番アカン」とは、山内の経験から導き出された教訓であった。50歳となった1977年に、名前を「博」から同じ読みの「溥」に変えたのも、電話帳を開くと「山内博」という名前が何人も出てくるのがシャクに触り、自分だけの名前をつけようと思ったからだという。
花札・トランプ製造から方向転換するべく試行錯誤
1980年発売の「ゲーム&ウォッチ」、1983年発売のファミコンの大ヒットはいずれも50歳を越えてからのこと。それまでの山内の人生は逆境の連続だった。
東京の早稲田大学の専門部法律科に通っていた1949年、任天堂2代目社長の祖父・山内
曾祖父・山内房治郎が1889年に創業して以来、任天堂の主力商品は花札。しかしまったくの手づくりだった花札は、しだいに採算が合わなくなっていた。これを山内は機械化によって乗り切ろうとする。ただし完全なオートメーション体制が確立されるまでには10年以上もの年月を要した。
その間、任天堂を支えたのがトランプのアイデアである。1959年、アメリカのディズニー・プロダクションから許諾をとり、キャラクター商品の走りともいうべき「ディズニー・トランプ」を発売、このヒットのおかげで同社は1962年には大阪証券取引所への上場を果たした。
が、ディズニー・トランプも需要が一巡すると、徐々に売り上げが鈍っていく。またこの前後、訪米時に世界最大のトランプメーカーといわれるUSプレイング・カード社の工場を見学して、その規模が思いのほか小さいことを知り、トランプ製造にはほとんど将来性がないと痛感した。ここから事業の転換をはかるべく山内の試行錯誤が始まる。
タクシー会社を始めたかと思えば、ディズニーふりかけやインスタントライスといった食品製造、あるいはコピー機などの事務機器の分野にも手を出した。しかし多額の資金を注ぎ込んだものの、いずれもうまくいかず、負債と在庫の山だけが残った。結局、任天堂は、オモチャの世界に活路を見出すしかなくなった。ただ、専業の玩具メーカーに勝つにはアイデアに加え、技術力が必要だ。そこで山内はエレクトロニクス玩具に着目、1964年に社内に新製品開発部を設けると、理工系出身の学生を多数採用してゆく。そのなかには、後年「ゲーム&ウォッチ」「ゲームボーイ」などのヒット商品を生み、「ゲームの神様」とも呼ばれた横井軍平もいた。
この方向転換による初めてのヒットが、1970年発売の「光線銃SP」だった。これは、銃口から出る光を、太陽電池を組み込んだ的に当てると、さまざまなアクションが起こる(ライオン型の的ならウォーッと吠え、ルーレットならぐるぐる回る)というものだ。
光線銃は、太陽電池の研究を進めていたシャープとの共同開発により生まれた。このとき技術面で横井軍平が中心的役割を担うとともに、シャープからは上村雅之が参加している。上村は1971年に任天堂に移り、のちにはファミコンの開発で成功を収めた。
光線銃はヒットとなったとはいえ、利益はあまり出なかった。これというのも生産体制がまだ整わず、不良品や故障品が続出、その対応に売り上げの大半を喰われてしまったためだ。また、後続商品である「カスタム・シリーズ」は、2万5000円という価格がアダとなりまったく売れなかった。
1973年には、光線銃の技術を応用した業務用レジャーシステム「レーザークレー」を発表、業者からの引き合いもよかったが、そこへ起きた第一次石油危機の影響からキャンセルが続出、これまた空振りに終わった。だが、効果音や映像の臨場感などは当初より評判で、エレクトロニクス路線がけっして間違っていないことを証明した。
時代が任天堂に味方しなかった例としては、1978年から翌年にかけてのインベーダーゲームのブームに乗り遅れたこともあげられる。タイトーが開発したアーケードゲーム『スペースインベーダー』が火をつけたこのブームでは、各社があいついで類似商品を発売、人々はゲームセンターや喫茶店などに置かれたゲームに熱中した。
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