一故人

山内溥—運を天に任せ、50代からサクセスストーリーを歩む

今回の「一故人」が取り上げた人物は、ゲームの「Nintendo」の名を世界に轟かせた経営者・山内溥。豪快な人柄とカリスマ性で知られたこの人物は、いかなる生を歩んできたのでしょうか。ファミコンが生まれるまでの苦闘から彼が会社に残したものまでを近藤正高さんが綴ります。

碁の打ち方に表れた本業での流儀

任天堂社長として、ファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめ多くのゲーム機やソフトを世に送り出してきた山内 ひろし (2013年9月19日没、85歳)は、自分ではテレビゲームをすることはなかったという。

ゲームもしなければ、1992年より米メジャーリーグのシアトルマリナーズのオーナーを務めながら野球にもそれほど関心のなかった山内にとって、ほぼ唯一の趣味は碁だった。碁を覚えたのは、任天堂の社長となってまもない23歳のとき。いちばん強くなったのは27~28歳の頃で、アマチュアの県代表に挑戦してみようかとも思っていた矢先、会社の業績が低迷し、碁どころではなくなってしまったという。

しばらくして経営危機を脱すると、山内はまた碁を打つようになる。日本棋院京都本部長だった大石清夫は、《山内さんの碁は、右向けといえば意地でも左を向く碁ですね。素直でないところがあります。よい意味では、それが反発心となって力を発揮します》と評した。これに本人は、《右向けと言われて右を向くのが本能的に嫌いなんです。それが碁の面では奇をてらう手を打ちすぎたり、変なところでがんばりすぎたりして、自滅するところがありますね》と付け加えている(『Forbes』1996年11月号)。

山内の碁の打ち方は、本業での流儀そのものであった。《山内溥という人は、何にこだわっていたか。『娯楽はよそと同じが一番アカン』ということ》と語ったのは、現・任天堂社長の岩田 さとる だ(井上理『任天堂 “驚き”を生む方程式』)。

「よそと同じが一番アカン」とは、山内の経験から導き出された教訓であった。50歳となった1977年に、名前を「博」から同じ読みの「溥」に変えたのも、電話帳を開くと「山内博」という名前が何人も出てくるのがシャクに触り、自分だけの名前をつけようと思ったからだという。

花札・トランプ製造から方向転換するべく試行錯誤

1980年発売の「ゲーム&ウォッチ」、1983年発売のファミコンの大ヒットはいずれも50歳を越えてからのこと。それまでの山内の人生は逆境の連続だった。

東京の早稲田大学の専門部法律科に通っていた1949年、任天堂2代目社長の祖父・山内 積良 せきりょう が急死する。積良の婿養子で3代目社長になるはずだった父・鹿之丞は、山内が幼い頃に出奔していた。そのため会社は、彼が京都に戻って継がざるをえなかった。

曾祖父・山内房治郎が1889年に創業して以来、任天堂の主力商品は花札。しかしまったくの手づくりだった花札は、しだいに採算が合わなくなっていた。これを山内は機械化によって乗り切ろうとする。ただし完全なオートメーション体制が確立されるまでには10年以上もの年月を要した。

その間、任天堂を支えたのがトランプのアイデアである。1959年、アメリカのディズニー・プロダクションから許諾をとり、キャラクター商品の走りともいうべき「ディズニー・トランプ」を発売、このヒットのおかげで同社は1962年には大阪証券取引所への上場を果たした。

が、ディズニー・トランプも需要が一巡すると、徐々に売り上げが鈍っていく。またこの前後、訪米時に世界最大のトランプメーカーといわれるUSプレイング・カード社の工場を見学して、その規模が思いのほか小さいことを知り、トランプ製造にはほとんど将来性がないと痛感した。ここから事業の転換をはかるべく山内の試行錯誤が始まる。

タクシー会社を始めたかと思えば、ディズニーふりかけやインスタントライスといった食品製造、あるいはコピー機などの事務機器の分野にも手を出した。しかし多額の資金を注ぎ込んだものの、いずれもうまくいかず、負債と在庫の山だけが残った。結局、任天堂は、オモチャの世界に活路を見出すしかなくなった。ただ、専業の玩具メーカーに勝つにはアイデアに加え、技術力が必要だ。そこで山内はエレクトロニクス玩具に着目、1964年に社内に新製品開発部を設けると、理工系出身の学生を多数採用してゆく。そのなかには、後年「ゲーム&ウォッチ」「ゲームボーイ」などのヒット商品を生み、「ゲームの神様」とも呼ばれた横井軍平もいた。

この方向転換による初めてのヒットが、1970年発売の「光線銃SP」だった。これは、銃口から出る光を、太陽電池を組み込んだ的に当てると、さまざまなアクションが起こる(ライオン型の的ならウォーッと吠え、ルーレットならぐるぐる回る)というものだ。

光線銃は、太陽電池の研究を進めていたシャープとの共同開発により生まれた。このとき技術面で横井軍平が中心的役割を担うとともに、シャープからは上村雅之が参加している。上村は1971年に任天堂に移り、のちにはファミコンの開発で成功を収めた。

光線銃はヒットとなったとはいえ、利益はあまり出なかった。これというのも生産体制がまだ整わず、不良品や故障品が続出、その対応に売り上げの大半を喰われてしまったためだ。また、後続商品である「カスタム・シリーズ」は、2万5000円という価格がアダとなりまったく売れなかった。

1973年には、光線銃の技術を応用した業務用レジャーシステム「レーザークレー」を発表、業者からの引き合いもよかったが、そこへ起きた第一次石油危機の影響からキャンセルが続出、これまた空振りに終わった。だが、効果音や映像の臨場感などは当初より評判で、エレクトロニクス路線がけっして間違っていないことを証明した。

時代が任天堂に味方しなかった例としては、1978年から翌年にかけてのインベーダーゲームのブームに乗り遅れたこともあげられる。タイトーが開発したアーケードゲーム『スペースインベーダー』が火をつけたこのブームでは、各社があいついで類似商品を発売、人々はゲームセンターや喫茶店などに置かれたゲームに熱中した。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

open_socio https://t.co/f9QmFpl27Q http://t.co/uXy9rkrmA6 5年弱前 replyretweetfavorite

huckleberry2008 イノベーションは何か強い信念がないと為されないものだと思います。 5年弱前 replyretweetfavorite

matomotei 他2コメント http://t.co/xoa0B87VPK 5年弱前 replyretweetfavorite

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