そうです。われらが遺志を継ぐのです」 |八面六臂(十四) 2

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、
内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

 一月初旬、江藤が政府に「帰県申請」を出したことを知った大木は、山王台の茶亭(料亭のこと)に江藤を呼び出して思いとどまるよう説得した。この時、江藤は「そうだな」と言って親友の言葉を受け容れた。これに大木は安心し、この日は「痛飲談笑して分袂」したという。

 だが三日後、江藤が横浜から船に乗ったという一報を受けた大木は愕然とした。

「今となっては後の祭りだが、断腸の思いだ」

 肺腑を抉るような口調で、大木が無念を吐露する。大隈には慰めの言葉もなかった。

「もう江藤は帰ってこない」

「大木さん、もはや終わったことです。前を向いていきましょう」

「だが、あれほどの大器を救えなかったわれわれにも、大いに責任はある」

 確かに江藤ほど新たな国家像を明確に描き、それを明文化できる逸材はいなかった。

 —佐賀は、江藤さんの死に場所ではなかったのだ。

 今更それを言っても仕方がないのだが、江藤は実に惜しい人材だった。

「大木さんの仰せの通りですが、あれだけ矢継ぎ早に事が決したのです。われらに何ができたというのです」

 時さえ稼げれば、東京で様々な政治工作を施すこともできた。だがあれでは手も足も出ない。

「江藤の無念は、われらが国家を正しい方向に導くことで晴らされる」

「そうです。われらが遺志を継ぐのです」

 大木が目に涙をためて言う。

「江藤は凄かった。一を聞いて十を知り、それを百まで拡大し、実行計画まで提示できた。その江藤が力を入れていた文部そして法務を、わしが引き継いだのも何かのめぐりあわせのような気がする」

 大木は文部卿から法務卿に転じていた。双方共に前任者は江藤だった。ちなみに明治初期は卿に公家が就くことが多く、厳密には江藤は文部大輔だった。

 文部大輔時代、江藤は和・漢・洋に分かれていた学科を統一し、大学から和・漢の学者を排除し、洋学のみとした。大木もその方針を引き継ぎ、教育改革案を策定していった。

 また江藤は法務卿時代に民法の編纂に着手したが、和洋折衷案を退け、「何もかもことごとく米国に倣う」という方針を打ち出した。というのも法律というものは、それぞれが単独で成り立っているのではなく様々に関係しているので、どこかで日本的な考えを採用してしまうと、必ず矛盾が生じてしまうからだ。大木もこの方針を踏襲する。

「大木さん、短いながらも江藤さんは偉大な足跡を残した。われらもその遺志を引き継ぎ、この国をもっとよくしていきましょう」

「その通りだ。そのために必要なのは教育だ」

 これまで大木は、近代化を図る上で最も大切なのは教育であり、維新以前の儒学に基づく教育を全面的に否定し、洋学を基本とした教育改革を主張してきた。

「仰せの通り、何事も教育なくして始まりません」

「そうだ。とくに人の思想は幼年時の教育が大切だと言う。つまり小学校教育を充実させ、続いて女子教育と商業を重視した実務教育の場を増やしていく。そうだ、この本を読んだか」

 大木が鞄から取り出した本には、『学問のすゝめ』と書かれていた。

「この著者は—、福沢諭吉」

「そうだ。かつて皆が貪るように読んでいた『西洋事情』の著者だ」

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません