それでも佐賀を救いたかったのだ。 |八面六臂(十四) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

十四


 江藤らを乗せた船は、神戸を経由して佐賀へと向かった。一月中旬、佐賀に着いた江藤は伊万里県の嬉野温泉に滞在していたが、佐賀入りを懇望する者たちが引きも切らずやってくるので、二十五日に佐賀に入る。だが政府批判と征韓論は沸騰しており、手に負えないと思った江藤は、いったん長崎深堀の別荘に入った。

 二十八日、大久保は岩村通俊佐賀県権令を「手ぬるい」として更迭。実弟の岩村高俊を後任に据えた。かつて高俊は小千谷談判で河井継之助に対して傲岸不遜な態度で接し、長岡藩を奥羽越列藩同盟方にした前歴がある。

 この人事を聞いた木戸は「かえって事態を悪化させる」と言って反対したが、大久保は聞く耳を持たない。

 大久保は佐賀を決起させて討伐し、見せしめにしたいのだから当然だった。だが高俊に挑発などさせる必要もなかった。

 二月一日、士族特権の復活を目指す憂国党は、直訴のための上京費用を捻出すべく、銀行業を営む小野組佐賀出張所を襲い、現金を強奪した。小野組官金強奪事件である。官金を奪ったということは反政府活動であり、大久保に討伐の大義ができた。

 二月四日、高俊は勇躍して佐賀に向かう。この時、船に乗り合わせたのが島義勇だった。

 島は三条実美から「佐賀を鎮撫せよ」という命を受け、佐賀へと向かうところだった。

 島は高俊に鎮静化の方針を問うが、高俊は「不逞分子を一網打尽にしてやる」といった暴言を繰り返し、島を怒らせる。しかも下関に停泊した折、岩村が鎮台兵を出動させるために下船したと知り、もはや戦闘はやむなしと決意する。

 この頃、大隈は「台湾出兵の件」で大久保への面談を申し入れていた。もちろん「佐賀の件」などと言えば断られるからだ。だが大久保はそれを察して、その日になって断ってきた。

 そのため三条と岩倉を動かそうとしたが、二人は大久保の言いなりで会おうともしない。

 九日、閣議が行われ、佐賀の討伐が正式決定される。しかも討伐軍は大久保が指揮することになり、大久保に権限を一任する臨機処分権が与えられた。

 あらゆることが矢継ぎ早に決定され、慎重論の介在する暇もなかった。というのも佐賀の鎮定が長引けば、鹿児島県士族がどう動くか分からないからだ。

 十一日、長崎で江藤と会った島は、もはや佐賀県士族の討伐は避け難いことを伝え、ひとまず二人で佐賀に入ることにする。

 この状況で佐賀に入れば、煮えたぎった鍋に手を入れるも同然だった。すでに討伐令が出ていることは佐賀にも伝わっており、江藤は征韓党の、島は憂国党の党首に祭り上げられる。

 江藤と島は、この戦いを自衛戦争と位置付け、一当たりして手強いところを見せてから話をつけようとでも思っていたのかもしれない。

 東京の大隈はこの戦いが長期化すると予想し、世論を別件に向けさせることで、佐賀討伐を和睦という形で終息させることにした。それが台湾出兵問題である。

 だが事態は、急速に煮詰まってきていた。

 十五日、岩村高俊は鎮台兵三百と共に佐賀城内の県庁に入るや、これを静観していた佐賀県士族に対し、一方的に攻撃を開始する。だがそうなれば反撃に出るしかない。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません