「江藤さんは話を聞きに行くつもりでも、沸騰している湯の中に手を入れれば、火傷を負うことになりかねませんよ」
「わしは、そんなへまをやらかさない」
江藤は希代の頑固者なので、他人の意見に左右されないのは分かる。だが議論を重ねていくうちに、「では、こういうことになったらいいだろう」ということになりかねない。
「しかし西洋の格言に『ミイラ取りがミイラになる』というものがあります」
「そのくらいは知っている。だがわしはミイラ取りではない」
江藤が珍しく大笑する。
「江藤さん以外に佐賀の不平士族たちを鎮撫できる人物はいないと、私も思います。しかし、あえて火中の栗を拾おうとしなくてもいいのではありませんか」
「誰かが行かなければ、佐賀の馬鹿者どもは決起し、討伐される。大久保とはそういう男だ」
全国の不平士族に思い知らせるために、大久保がどこかの県の不平士族を討伐して見せしめにすると、江藤は以前から言っていた。それが佐賀県士族に絞られつつあるのは明らかだった。
「今、誰かが行って鎮撫に当たらなければ、われらの故郷は焦土とされる」
「そんなことはありません。武力蜂起などしたところで、どうなるものでもありません。そんなことは、国元の連中も分かっているはずです。大久保さんに兵を送る大義を摑ませなければよいだけです」
「いや、中島や山田は、もう決起を抑えきれないと言っている」
佐賀県では他藩に比べて教育制度が整っていたことで、誰もが書に親しみ、政治を論じる気風があった。長崎に近いこともあって、藩士の多くが、いつか外国に行ってみたいと思っている。そうした進歩的な気風の持ち主たちに、帰農して生涯田畑を耕せと言ったところで、言うことを聞くはずがないのだ。
「県の仕事はないのですか」
「役人など極めて少ないのは知っての通りだ」
これまで武士として誇り高く生きてきた連中に、『百姓になれ』『魚を捕れ』『商売をしろ』と言っても、「はい、そうですか」と変われるものではない。
士族授産と言っても、即効性があるのは農業しかなく、多くの知識階級を食べさせていく産業をすぐに生み出すのは困難だった。
——だからこそ近代化を急がねば。
近代化を進めることは国家が工業化していくことで、農業以外の多くの仕事を生み出すことにつながる。
「だからといって、人は働かなければ食べていけません」
「それが分からん連中もいるのだ」
江戸時代の武士たちは、仕事をせずとも家禄で食べていけた。それが染みついているので、何を言おうと働こうとしない。
江藤が険しい顔で言う。
「岩村権令は士族授産を懸命に行い、官有林の払い下げを申請しているが、それとて一時凌ぎだ」
岩村通俊は土佐藩出身だが、佐賀の現状を憂い、広大な官有林を県に払い下げてもらい、その木材売却によって、当面の糊口を凌ごうとしていた。
「大久保さんの政府が、そんなことを了解するわけありませんよ」
「分かっている」
大久保が佐賀の不平士族たちを追い込もうとしているなら、それを認めることはない。
「しかし佐賀に行ったところで、どうやって鎮めるというのです。江藤さんが行けば、皆は盛り上がるだけですよ」
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