江藤さん、やはり帰るのですか」 |八面六臂(十二) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

十二


 八月十九日、西郷派遣の件は天皇の裁可を得た。ただし天皇は「岩倉の帰国を待って最終決定とする」という条件を出した。ちょうど岩倉たち使節団は帰途の船中にあり、九月十三日に横浜に到着予定だったからだ。

 だが天皇の出した小さな条件が、後に大きな波紋となって広がっていくとは、大隈も含めた当事者たちにとって、全く予想もつかなかった。

 九月十三日、岩倉使節団が帰国した。

 早速、三条は岩倉に政局が統率困難なほどに紛糾し、様々な改革は参議の連中が勝手に進めたことだと弁明した。同時に木戸の参議復帰と(参議のままだが仕事をしていない)、大久保の参議就任を進めてもらえるよう求めた。ところが木戸は病床に就き、大久保は岩倉の要請にも首を縦に振らない。

 大久保は明治政府という自らの画布に勝手に絵を描かれ、頭に来ていたのだ。しかも旧主の島津久光は廃藩に怒り、西郷から大久保に怒りの矛先を向け始めた。

 どう考えても、この状態で参議に復帰したところで、大久保の思うようなことはできない。中でも大蔵卿の自分が復帰しても報告にもやってこず、大蔵省事務総裁という臨時職を辞そうともしない大隈に対する怒りは、相当なものがあった。

 一方、西郷は西郷で朝鮮使節派遣の件が進まず苛立っていた。だが欧米の近代化ぶりを目の当たりにしてきた岩倉は、使節派遣が派兵につながると危惧しており、即座に反対に回った。

 それは大隈も同じで、西郷の使節派遣には絶対反対ではないものの、征韓を目的とした出兵には反対という姿勢でいた。それゆえ八月十七日の閣議では、西郷の使節派遣に反対しなかったものの、態度を不鮮明にした。

 これは三条も同じで、使節派遣反対派の伊藤に「戦争になったら政府の金はなくなる」と脅されていたからだ。

 伊藤は帰国後、西郷の使節派遣を阻止すべく、水面下の工作を続けていた。伊藤は純粋に財政的見地から、危うい橋を渡りたくなかったのだ。

 すなわち使節団が帰ってきたことで、論点は即時派兵と西郷の使節派遣という対立から、使節派遣するかしないかに変わってきた。

 三条と大隈を反対派に取り込めたと見た岩倉は十月八日、大久保の参議就任を承諾した(大蔵卿は辞任)。さらに副島を参議に就けることで(外務卿兼任)バランスを取った。

 大久保はいやいやながら参議となったが、なったからには西郷の使節派遣を阻止しようとしていた。

 だが大隈は肚を決めかねていた。

 使節派遣が即時派兵につながる理由はなく、またここまで決定し掛かっている使節派遣が覆れば、西郷ら使節派遣賛成派は、参議を辞任せざるを得なくなるからだ。西郷はまだしも、江藤はこれからも政府に必要な人材であり、辞任させるなどもってのほかだった。

 十月十四日、病欠の木戸を除く十名が出席し、閣議が開かれた。大久保は使節を派遣することは開戦に結び付くとして、「使節派遣反対七箇条」を挙げて論陣を張った。政府財政は戦費負担に耐えられず、それを人民に押し付ければ各地で暴動が起こると主張し、さらに欧米列強との条約改正に備え、国権を確立し、国内体制の整備を優先すべしという論旨だった。だが使節派遣が開戦に結び付く部分には、どうしても説得力を欠いていた。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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