酒は後にしよう」 |八面六臂(十一) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

十一


 井上と渋沢の辞表は受理され、その二日後の五月九日、大隈が参議と兼任で大蔵省事務総裁という職に就いた。大蔵卿の大久保が外遊中のための臨時措置だった。

 ところが五月十日、井上と渋沢が辞職にあたって提出した建議書が、新聞に掲載された。井上の強烈な「いたちの最後っ屁」だった。

 政府内の重要情報を意図的に流失した井上の罪は重い。後に井上は、司法省臨時裁判所により贖罪金三万円を課されている。

 だが事はこれでは済まない。こんなことを放置しておけば、政府批判の声は高まり、外国人たちの日本政府への信頼も揺らぐ。

 そこで大隈は吏員を使って徹夜で調査し、数日で「明治六年歳入出見込会計表」を作成した。それによると歳入は四千八百七十六万円で、歳出は四千六百五十九万円と判明した。この数字は陸軍省の予算八百万を、そのまま歳出として計上した上でのことだった。

 それでも新聞各紙は「辻褄合わせだ」という声を上げたが、翌年に集計した歳入出を見て黙らざるを得なかった。井上の予想通りに歳出は五千万円だったが、歳入は米価上昇などにより七千五十六万にのぼり、臨時歳入を含めると、八千五百五十万という数字を叩き出したのだ。

 運もあったが、結果的に大隈はこの勝負を勝ち抜き、さらに政府内での立場を盤石にした。

 二十六日、使節団に先行して大久保が帰国する。だが留守政府の現状を見て、大久保は愕然とした。自分がいない間に、新しい政策を出しまくり、参議も増員されていたからだ。すなわち「十二カ条の約定書」など無視されていた。

 明治六年の政府は、太政大臣の三条、左大臣は空席、右大臣は渡欧中の岩倉、参議は西郷、木戸、大隈、板垣、後藤、大木、江藤である。

 大久保は大蔵卿なので参議ではない。そのため薩摩藩出身者で参議は西郷だけになっていた。しかも政策決定において、太政官すなわち参議の権限が強まっていたため、薩摩閥は見る影もない状態に置かれていた。八月十六日、大久保は不貞腐れるようにして休暇を取り、関西方面の旅行へと出てしまう。

 この日の前日付の村田新八あて書簡で、大久保は、朝鮮使節派遣をめぐる政府の紛糾、井上の辞職に伴う大蔵省の混乱、そして約定書を踏みにじった留守政府の急進的改革への不満をぶちまけている。

 七月二十三日、木戸が帰国する。外遊中に大久保との仲が険悪になり、別ルートで帰国したため、時間が掛かったのだ。

 木戸は帰国早々、井上の汚職とも言える尾去沢銅山事件、元長州藩士で京都府権大参事の槇村正直が民業を圧迫した小野組転籍事件に直面し、それらのもみ消しに奔走せねばならなかった。だがその前に立ちはだかるのは、司法卿の江藤だった。そのため長州藩閥と江藤の関係は、この頃から悪化していく。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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maito0405 古来より、外交を対馬に丸投げしていた日本。そのツケを朝鮮問題で明治政府は払うことになる。そしてこれが大騒動の幕開けに・・・ 24日前 replyretweetfavorite