四月二十八日、井上が大隈の執務室にやってきた。
「井上さん、今日はどうしましたか」
「医者じゃないんですから、『どうしましたか』はないでしょう」
ふだんは感情を表に出さない井上が怒っているので、大隈も襟を正した。
「これは失礼しました。お話の筋は分かっています」
「どこまでお分かりなのですか」
「井上さんのお立場は分かっています」
「では大隈さんは、算術ができないのですか」
大隈がため息をつく。
「井上さんと渋沢さんの建議書は読ませていただきました。明治六年の政府の歳入は約四千万円。各省の要求する予算を総計すると約五千万円。つまり一千万円ほどの不足が生じるということですね」
「そうです。それだけではありません。かつて諸藩が勝手に出した藩札や明治政府になってから発行した太政官札などの累積が、一億二千万円ほどになります。こうした不換紙幣を新札に交換していかねばならないのです」
「分かっています」
「今後は歳入に見合った歳出計画を立案すべきです」
「仰せの通りだと思います」と即座に答えたが、井上の言葉が引っ掛かる。
——まさか辞めるつもりか。
井上が懐から二つの書類を取り出した。そこには「辞表」と書かれていた。
井上が決然として言う。
「こちらが私の辞表です。そしてこちらが渋沢君の辞表です。彼に『大隈さんのところに一緒に行こう』と言ったところ、彼は『大隈さんには会いたくない』と言って託されたものです」
「井上さんは、途中で投げ出すんですか」
「投げ出すとは心外ですな。では言わせてもらいますが、太政官職制を潤飾(改定に準ずる変更)して正院に権力を集中し、参議たちが国政を壟断し、予算編成権まで大蔵省から正院に移そうとしていると聞きました。それは、私と渋沢君のやってきた仕事を否定されたに等しいことです。それゆえ身を引くのです」
さすがに井上は情報通だった。
「正直に申し上げると、その通りです」
「やはりそうでしたか」
井上が苦笑いを漏らす。
「四月半ばに、大隈さんあてに書いた私の書簡を覚えておいでですか」
「もちろんです」
そこには「私はあなたのほかに信じて従っていく人はいません。公務上でどれほどの激論を交わしても真の友人と考えています」と書かれていた。
——つまりあの時、井上はわしに釘を刺しておいたのだ。
「私もそう思っています。しかし、それとこれとは話が別です。私は少しくらいの無理を通さないと、近代化は進まないと思っています」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。