十
岩倉使節団は明治四年十一月十二日から明治五年九月末までの十カ月半、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど十四カ国を回り、新政府首脳部の紹介、不平等条約改正のための下交渉、そして西洋列強諸国の文明を学ぶことを目的としていた。
しかし、同年十二月六日にサンフランシスコに着いた一行は、アメリカのあまりの歓迎ぶりに喜び、条約改正の本交渉を始めることにした。そのために大久保と伊藤がいったん帰国し、天皇の裁可を賜った上、再びアメリカに向かったので、アメリカだけで六カ月半も滞在する羽目になる。
ところが交渉はうまく行かず、致し方なく大西洋を渡ってイギリスに行くが、今度は要人たちがそろってバカンスを取っている時期にあたり、彼らが帰るまで、一カ月近くの間、待たねばならなかった。
結局、岩倉使節団は明治四年十一月十二日から、太陽暦に改まった明治六年九月十三日までの二十二カ月もの間、日本を留守にすることになる。
一方、大隈ら留守政府の面々は、どうすれば日本の封建的社会制度を一掃し、近代化を推進していけるかを念頭に諸施策を打ち出していた。
明治五年の十二月、留守政府は太陽暦を採用したので、旧暦の明治五年十二月三日が、新暦の明治六年一月一日になる。
この頃、政局は混乱し始めていた。
太政大臣の三条は新暦の一月六日付の岩倉あて書簡で、政府が直面している四つの問題を知らせた。
三条の指摘する第一の問題は、島津久光問題で、これは藩政に携わっていた西郷が中央政府の一員になる際、久光との間で「政府人事を一新し、政治を改革する」ことを約束していたことに起因する。具体的には「廃藩置県のような反封建的改革は行わない」ということで、おそらく西郷も当初はそのつもりだったのだろう。だが上京して参議になり、皆の話を聞くうちに「廃藩置県やむなし」となったのだ。それゆえ久光の怒りは収まらず、西郷弾劾を主張してやまない。
第二は明治六年の予算をめぐって大蔵省と各省との間で激しい対立があり、井上が抗議の長期欠勤をしたことだ。大蔵大輔の井上が「ない袖は振れぬ」とばかりに、文部省、法務省、工部省などの予算を大削減したにもかかわらず、陸軍省の要求額は全額承認したことに諸方面から抗議の声が上がったのだ。つまり教育制度の改革や裁判制度の確立、また鉄道敷設を差し置き、井上は同郷の山縣の要求する陸軍の拡充だけを認めたのだ。
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