「大隈さん、このままでは、日本沿海の海運は薩長の手に握られます」
「つまり陰で手を握ろうということですね」
「そうです。見返りは——」
「金銭的な見返りは要りません」
「よろしいので」
大隈がワインを口に運びながらうなずく。
「岩崎さんのおっしゃることは、よく分かります。民間事業は自由競争が基本です。それを圧迫するようなことはよろしくないですね」
いかに旧土佐藩の肝煎りとはいえ、民業を振興させるという旗を掲げた政府が、逆に民業を圧迫させるなど間違っている。
「つまり向後、便宜を図っていただけると思ってよろしいか」
「いえいえ、私ができることは、公正な競争が行われるよう仕向けることだけです。後は岩崎さんの腕次第——」
「はは、それもそうですね。分かりました。それで十分です」
岩崎が頭をぺこりと下げたのを見て、大隈が話題を転じた。
「海運業は楽しいですか」
「えっ、楽しいと——」
「そうです。岩崎さんのことだ。いつかは海外へも進出するおつもりでしょう」
「さすが大隈さんだ。何事もお見通しですな」
「あなたは生粋の商人だ。政治家にならないでよかった」
岩崎が恥ずかしそうに頭をかく。
「当初は私も政府の高官になって出世したいと思っていました。しかし土佐は身分制度が厳しく、後藤さんや板垣さんは、私のことなど歯牙にも掛けてくれませんでした。それでも土佐藩の大坂蔵屋敷を切り回していたのを認められ、九十九商会(旧土佐商会)を拝領しました。当時は『こんな債務だらけの会社をもらってどうする』と思いましたが、事業というのは知恵一つでいかようにでもなると気づいてからは、『よし、やってやろう』という気になりました」
岩崎が感慨深げに語る。
「さすが岩崎さんだ。切り替えが速い」
「こんな時代ですからね。くよくよしていても始まりません」
——その通りだ。
使節団の件では、大隈にも忸怩たるものがあったが、岩崎のように気持ちを切り替えねばならないと思った。
「岩崎さんの話を聞いていると、天命というものが本当にあるのではないかと思いました」
「そうかもしれません。大隈さんも逆に国内に残られてよかったかもしれませんよ」
岩崎が狡猾そうな笑みを浮かべる。
「どうしてですか」
「居残り組、いわゆる留守政府を見渡して下さい。三条さんを筆頭に、西郷さん、板垣さん、大隈さんの三参議。さらに閣僚としては、後藤さん、井上さん、山縣さん、大木さんらで内閣は構成されていますよね」
この頃、副島は外務卿に就任し、外国公使らとの折衝に掛かりきりになっていたので、内閣の枢要には関与していない。
「それがどうかしましたか」
「三条さんはご存じの通り、武士出身者に頭が上がらない。西郷さんと板垣さんは参議になって三月しか経っていません。つまり国政に慣れていない。ほかの方々は、何を言おうが参議の下役だ。つまり内閣は大隈さんの自由になる」
「いえいえ、そこは大久保さんだ。われわれ参議と『十二カ条の約定書(誓約書)』なるものを取り交わしています」
「ああ、そのことは知っています」
岩倉や大久保らは、自分たちが外遊している間、主要政策の決定や重要人事を留守政府が行ってはならないという「十二カ条の約定書」を、留守組の参議との間で取り交わしていた。
「だが、物は考えようです」
岩崎の三白眼が光る。
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