八
十一月、条約改正の下交渉と欧米諸国の近代化を学ぶため、岩倉使節団が日本を出発した。特命全権大使には岩倉が、副使には大久保、木戸、伊藤、そして山口が就き、使節団四十八人、留学生五十四人は、最初の訪問地である米国に向けて出発した。
横浜港で行われた式典に出席し、人力車に乗って帰途に就こうとした時、背後から「大隈さん」と呼び止められた。
振り向くと恰幅のいい紳士が立っている。
「あっ、岩崎さんじゃありませんか!」
「ご無沙汰しております」
岩崎弥太郎が大きめの山高帽を取って深々と頭を下げる。岩崎とは政府関係者や外国人の夜会や舞踏会で顔を合わせたことはあるものの、挨拶する程度だったので、幕末の長崎以来の再会と言ってもよかった。
「ご立派になられた」
岩崎は、欧州の紳士然とした黒々とした髭を生やしていた。それはフレンドリー・マトンチョップスという珍しい髭の生やし方だが、岩崎が意識してそうしているかどうかは分からない。というのも手入れが悪く、ぼさぼさになっているからだ。
「いやいや、大隈さんこそ立身出世なさいましたな」
「とんでもない。私なんて今でも政府の使い走りです」
大隈は謙遜ではなく、半ば本気でそう思っていた。
「そうだ。もしお時間があれば、食事でもご一緒しませんか」
「それはいい。ちょうど昼時ですからね」
岩崎は横浜には詳しいらしく、先に立って歩いていく。その蟹股の歩き方が、また岩崎らしくて愛嬌がある。
岩崎が案内したのは、明治二年に開業した日本初の洋式ホテル「横浜ホテル」だった。大隈は初めて入ったが、フロントの前に掲げられた案内板には、バーやビリヤード室まであると書いてある。
岩崎に「カフェテリア」と書かれた食堂に案内されると、岩崎は「肉はお好きですか」と問うてきた。大隈は「長崎暮らしが長かったので、もちろん食べられます」と答えたが、西洋人の好む硬くて分厚い肉は、さほど好みではない。
岩崎はビーフステーキとワインを注文すると、早速切り出した。
「此度のことは残念でしたね」
「よくご存じで」
岩崎の情報通ぶりは知れわたっている。
「政府内のことは、嫌でも耳に入ってくるんですよ」
「では、説明の必要はありませんね。私などを洋行させれば、帰ってきてから『あれをやろう、これを始めよう』とうるさく言うのを、大久保さんらは見越していたのでしょう」
「やはり、そういうことですね」と言いつつ、岩崎が大きな腹を抱えて笑う。
「それで、岩崎さんの方はいかがですか」
「いやいや、私なんてたいしたことはしていませんよ」
そう言いながら岩崎は、ここ数年の動向を得意げに語った。それは大隈にとっても興味深いものだった。
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