七
廃藩置県が行われた翌八月、大隈は海外への使節団派遣を提案する。これは、かつて幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正期限が翌明治五年(一八七二)に迫っていたからだ。
大隈は自ら全権大使となって、諸外国と下交渉をしたいと請願した。こうした交渉ごとなら大隈は得意であり、英語を自由に操れる数少ない閣僚ということでも、容易に承認されると思っていた。実は大隈の背後には、大隈の推挙で政府の法律顧問の座に就いているフルベッキの助言があった。
しかし案に相違して、この話は二転三転し、岩倉、大久保、木戸、伊藤が中心となる大規模な使節団として実現されることになる。ところがこの中に、大隈の名はなかった。
その裏には、政府内での大隈の発言力が強まることを危惧した大久保と、大隈を持て余し始めていた木戸の暗黙の合意があった。
ただし大久保らは旧佐賀藩の人々を慮り、外務少輔の山口尚芳を副使に抜擢するということで、表面的に取り繕った。
結局、使節団は岩倉具視を特命全権大使に、大久保、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳(ますか)を副使とし、各省庁の理事官四十六、その随員十八、男子留学生四十三、女子留学生五の百十七名から成り、岩倉使節団と呼ばれることになる。
一行は、明治五年(1872)九月末までの十カ月半、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど十四カ国を回り、欧米資本主義の実態を見聞する予定である。
また廃藩置県に際して佐賀藩知事を拝命した鍋島直大は、それを辞退しても岩倉使節団に加えてほしいと願い出たので、それも認められた。直大は父の閑叟譲りなのか、諸外国の文物への関心と憧憬はなみなみならないものがあった。
さらに久米邦武も使節団に加えられた。帰国後、久米は『特命全権大使 米欧回覧実記』を執筆し、この使節団の記録を後世に残すという功績を顕した。
だが使節団に、大隈の名がないことに変わりはない。大隈は失意のどん底にあった。
九月末、江藤の周旋で旧佐賀藩士郷友会が開催された。場所は新橋の料亭で、元佐賀藩士で政府の枢要にいる者たちだけが招かれた。
集まったのは副島、大木、島、佐野、そして大隈の六人である。
佐野はこの頃、工部大丞兼灯台頭として、各地に灯台を設置していた。
「今日はよくお集まりいただいた。まずはビールで乾杯しよう」
江藤が手を叩くと、仲居が現れ、皆のカップに茶色い液体を満たしていく。
「これは何だ」
副島が顔をしかめると、島が得意げに言った。
「知らんのか。これがビールという酒だ。箱館にいる時は、いくらでも飲めた」
江藤が苦笑いを浮かべて言う。
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