ホドロフスキーのシュールな世界
僕がアレハンドロ・ホドロフスキーの映画に出会ったのは二十歳のころで、付き合い始めた彼女と渋谷の映画館で『サンタ・サングレ』を見たときのことだった。もちろん男のズボンのチャックからアナコンダのような大蛇が飛び出すようなむちゃくちゃな作品で、彼女は「せっかくのデートなのに」と大いにガッカリしていた。
でも僕はシュールなものが好きだったから、勝手にとても楽しんだ。その後、彼女とは別れてしまったけど、ホドロフスキーへの関心は続いた。いや、そうでもないのかもしれない。なにしろ次に彼の作品を見たのはほんの最近のことだったから。
合計で4時間を越えるだろう『リアリティーのダンス』と『エンドレス・ポエトリー』を見ているあいだ、僕は全く飽きなかった。大学生時代みたいに激しい細部に目を奪われるのではなく、その向こう側にあるホドロフスキーの悲しみがしっかり伝わってきたからだ。
『リアリティーのダンス』は1929年生まれの彼が、ボリビアに近いチリの街トコピージャから8歳でサンティアゴに転居するまでを描き、『エンドレス・ポエトリー』はその後、成長して若き芸術家となった彼が24歳でチリを出てパリに移住するまでを扱っている。だからこの二作を見れば、ホドロフスキーの青春を観客も追体験できる。
だがもちろん彼のことだ。普通の作品にはなっていない。悲しみのあまり少年時代のアレハンドロが海に石を投げると、海が怒って大量の魚を岸に打ち上げる。母親はなぜか常にセリフをオペラのようにすべて歌で表現するし、路上では炭鉱でダイナマイトに手足を吹っ飛ばされた男たちが叫び、踊っている。
理解できない世界
だがそうしたギミックは、いたずらに人を驚かせるために用いられているのではない。子供時代のアレハンドロが感じた悲しみや恐怖、不安を表現するための比喩として用いられているのだ。だから主人公の主観的には、これらは決してシュールではなく、むしろ正確な描写ということになる。
なぜそれほど彼は辛いのか。世界が理解できないからだ。そして世界が理解できない大きな理由は、抑圧的な父親が全く愛してくれないからだ。父親に愛されようとして、アレハンドロは、男なら麻酔なしで歯の治療をしろ、といった父親の無理難題に答えようとする。それでも愛されないと、自分が悪かったのだと彼は思う。
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