ウェスリー……彼の姿はどこにもなかった。リビングルームに立つと、ドアにメモが留められていることに気づいた。“図書館に出かける、六時ごろ帰る”と書かれている。メモの最後に、ノーラがいつも仕事に出かけるとき彼が言う言葉があった——“そんなこと、する必要ないんだよ”そう、する必要はない。でもキングズリーには借りがある。ノーラはコートとおもちゃ袋をつかみ、バスルームに立ち寄った。戸棚から薬の瓶を取り出し、水も飲まずに一錠をのみこんで、家を出た。
ホテルまで四十分かかった。ノーラの顧客は世界のエリートに属する——最も裕福で最も権力のある男女だけがノーラの客となれるのだ。名前を広く知られている人々も多い。だから、ノーラが家やホテルの正面玄関から入ることはめったにない。しかしキングズリーは慎重にしろとは言わなかったので、面倒なことはしなかった。
ニューヨークで指折りの、歴史と格調あるホテルの正面ロビーを堂々と通る。ロビーにはプラダまみれの女たちと、アルマーニのスーツに押しこまれた男たちが散らばっていた。ノーラは顔がにやけるのをこらえて、革と編み上げ紐の装いで、トイバッグを背中に斜めがけし、冬でしかも屋内なのにサングラスをして、人々のあいだを通り過ぎた。自分と同じ空間にいるだけでびくびくする人々の中にいるのはおもしろかった。
エレベーターの近くに立っていたカップルは、ノーラがそばに立つと、そこからいなくなった。ヴァニラな人々はときどきすごくかわいい。ノーラはエレベーターに乗りこみ、十九階のボタンを押して、ひとりで上に向かった。
エレベーターを降り、方向を確かめて、一九〇九号室をめざす。ドアの前に置かれた新聞の下にキーカードが隠されている。ドアのロックを解除し、中に入ると、黒い服を着た背の高いブロンドの男性が、こちらに背中を向けて立っていた。
「エレノア」
男は言った。
ノーラは息をのんだ。バッグが金属のがちゃりという音をたてて床に落ちる。
「どうして……ソルン」
ザックはロイヤル社の自分のオフィスでデスクに向かっていた。パソコンの電源を切る前に、メールをもう一度チェックする。ノーラからセックスシーンの削除について喧嘩をふっかけるメールは来ていない。自分がどんな種類の本を書いているのか、もう理解したのだろう。
デスクの上の書類を整理していると、法務部が用意した契約書を見つけた。まだサインはされていない。たとえノーラが今日サインしても、ザックがサインするまでは有効にならない。条件にざっと目を通す。J・Pはとても太っ腹だ。ロイヤル社が巨額の前渡し金を出すことはあまりない。もちろんノーラは自分の熱心なファンを連れている。J・Pは彼女が古くてお堅い出版社に新風を吹きこんでくれると期待しているのだ。そんな大胆な手が功を奏すかもしれない——僕が自分の仕事をきちんと果たせば。
ザックはまだノーラのサインのない契約書をぱらぱらめくり、微笑んだ。グレースと最初に家を買ったとき、事務手続きの煩雑さは半端ではなかった。かわいそうなグレース。ふたりでロンドンへ移ったときに下見もせずに借りた狭いフラットで、小さなキッチンテーブルに座る彼女を見ていたことを思い出す。結婚して一年もたっていなかった。彼女は契約書の言葉の意味をひとつ残らず知るべきだと思っていた。彼女は何時間も座ったまま、すべてのページを穴が空くほど見ていた。ザックが出かけて帰ってくると、彼女はさらに一ダースもの質問を抱えていた。“第一先買権ってどういう意味? 査定額ってわかる? あなたが自宅勤務をするなら例外的許可が必要になる?”
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