殺虫スプレーを目に浴びた長女
長女が描いた『鬼滅の刃』の禰豆子
——パパ……目痛い。
長女が泣きながら近寄ってきたのは、夕食後に洗い物をしているときだった。
京都では連日35度近くの気温が続き、少し暑さにやられていた私は、洗い物の手を止めずにちらっと振り向いて、どうしたん? と声をかけた。
長女は顔にタオルを押し当てて、声を押し殺すようにして泣いている。
普段から、長女は声をあげて泣くことがない。
涙を拭いながら隅の方でひっそりしゃくりあげているタイプだ。
事情を聞いてみると、
——洗面所に蚊がいたから、スプレーしようとしたら目に入ってしまってん。
と目を押さえた。
状況がよくわからないので次女にも聞いてみると、噴射ボタンがうまく押せず、お腹にスプレーを固定してボタンをいじっているうちに思いっきり顔面に殺虫剤を浴びてしまったらしい。
——何してんねんほんまに! 殺虫剤勝手に触ったらあかんって言ってるやん! 目洗いなさい!
私は反射的にきつい声をあげて、目を洗いに行かせた。
洗った後も洗面所で泣いているので、様子を見に行き、水道のノズルをシャワーに切り替えて上向きにして流水に目を晒させる。
それでも痛みは取れないらしい。
目だし怖いな、と思った私は「#8000」に電話をかけた。
子どもの健康問題について不安になったときにかけると、看護師さんが相談に乗ってくれたりアドバイスをくれたりするサービスで、それまで何度かかけたことがある。
——すぐ受診したほうがいいですね。明日でもいいですが、痛みが引かないようならいまから受診してください。
警察官が殺虫スプレーの写真を撮った
時計を見ると21時過ぎだった。
近くの救急病院の名前と電話番号を4つ教えてもらい、電話を切るとすぐにかける。
だがどこも、眼科は対応していないとのこと。
そりゃそうだろうな、だいたい宿直の先生は内科か外科だもんな、とようやく思い当たる。
ふたたび#8000にかけてみると、それなら救急車を呼んでくださいとのことだった。
救急車で運ばれた場合、帰りは自力で帰らなければならない。
いまからだと寝かしつけられるのは何時になるだろうと、時計と泣いている長女を見比べてから、119にかけた。
2人ともパジャマのまま靴下だけ履かせて準備をしていると、5分もしないうちにサイレンの音が近づいてきた。
門のすぐ前にドアを開けてくれている救急車に3人で乗りこむ。
事情を話すと、眼科医のいる病院を調べてくれて、近いところから受診できるかどうかを聞いてくれるという。
確認に時間がかかっているらしく、なかなか搬送先が見つからない。
3人で座って待っていると、警察官が乗りこんできた。
事情を聞かれて、さっきした説明を繰り返すと、小さな手帳に書き取っていた。
——写真撮っていいですか?
と長女にデジカメを向けられたので、
——なんでですか? 何に使うんですか? どうしても必要?
と質問攻めにしたところ、警察官は引き下がり、代わりに私が家から持ってきた殺虫スプレーの写真を撮った。
救急車で運ばれる子どもの顔をなぜ撮影するのだろう。
怒りではなく心配や愛おしさを伝えることの難しさ
たくあんとくもりさんによる写真ACからの写真
ようやく搬送先が決まったが、京都市内の北のほうにある大学病院らしい。
時計を見ると22時半頃だった。
そこでいいですか? と確認されて、帰りのタクシー代ヤバいことになるなと思いながら同意した。
救急車が走り出すと、子どもたちはすぐに椅子に座ったまま寝始めた。
普段ならとっくに寝ている時間帯なのに、スピードをだしているせいか、やたら揺れる車のなかで可哀そうだな、と思いながら私はスマホを取りだした。
——がくちゃんちの前に救急車とパトカー停まってるやん!
——どうした? 何があった?
近所のママ友の、あかりちゃんとりっちゃんからLINEが入っていた。
静かな夜の住宅街にサイレンが鳴り響いて、さぞかしびっくりしただろう。
事情を説明すると、
——事件が起きたんかと思ったわ。
——帰りたいへんやね、電車とかあんの?
と心配してくれた。
2人とやりとりするうちに、私はようやく我に返った。
隣では子どもたちが私に寄りかかって眠っている。
——さっき怒ってごめんな。
と心のなかで長女に言った。
「目が痛い」と寄ってきたとき、なぜ怒ってしまったんだろう。
「大丈夫? 痛かったな。目洗おか」と落ち着いた対応ができなかったんだろう。
蒸し暑さ、寝不足、早く寝かしつけないとという焦り、子どもが寝たあとにやらなければならない家事と仕事……それらに頭がいっぱいで、子どものほうをちゃんと見ていなかった。
先輩のシングルファーザーの言葉を思いだした。
私と同い年の彼には、今年16歳になる娘さんがいる。
反抗期とかありました?
と聞いた私に、彼はこう答えたのだ。
——あったよ。中学生の頃、ぜんぜん家帰ってこうへんようになって。腹も立ったけど、帰ってきたときには、「よう帰ってきたな、お父さんずっと心配してた」ってことだけ伝えるようにしてた。高校生になったらパタッと反抗期が終わったんやけど、中学んとき家帰らへんかったことたまに思いだして、「あんときごめんな」って言うてくるわ。覚えてるんやろな。
子どもにイラっとすることは多々あるが、その感情は心配や愛おしさの裏返しであることが多い。
そのことをよく自覚して、怒りではなく心配や愛おしさのほうを伝えたほうが子どもの心には残る。
彼がもし、「どこ行っとったんや! お前みたいなもんもう帰ってくんな!」とブチギレていたら、娘さんは反抗期が終わった後、いまほどお父さんのことを信頼できていなかったかもしれない。
私も見習おう、と思っていたはずが、咄嗟のときにはそうふるまえないものだな、と落ちこんだ。
救急車を呼ぶと警察と児相に情報共有される
病院に着くと、長女は病室に通され、私と次女は待合室で待つように言われた。
当直医の診察の後に、眼科の先生が診に来てくれるとかで、診察は1時間近くかかった。
目が冴えたのか、広い待合室を散歩したりお喋りしたりし始める次女の相手をしていると、知らない番号から着信があった。
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