※これまでのお話は<こちら>から。
母の告別式が終わった夜は、寝つきが悪そうだったので睡眠導入剤を飲んだ。母のがんが発覚した頃、つらいことが重なり、人生ではじめて不眠になった。それ以来、明らかに寝つきが悪いと思われるときは我慢せずに飲むようになり、すとんと眠りに落ちて七時間ほどで起きる。ふだんは服用しないが、原因がはっきりしているときは、薬に頼るのもよしとした。
朝起きると、昨晩泊まっていた兄が、生命保険の手続きをしはじめようとしていた。私は私で香典返しの品を考えたりと、まだ残務はたっぷりある。とにかく朝ごはんを食べようかと思う頃に父が起きてきた。
リビングのドアが開くと、喪服を着ている父がいた。
「えっ!? どうしたの?」私と兄が目を丸くする。
「今日お葬式かと思って」と父は言う。昨日着ていた喪服の一式が、寝室にあったからだろうか。
「お葬式は、昨日終わったじゃん。お父さん、うまく話してたよ」
私がさとすようにいうと、父は不安そうに言う。
「そうだったかなぁ。おれ、うまく喋ってた?」
兄は「うん、よかったよ、ちゃんとやってたよ」と言いながら、普段着に着替えるよう促した。父の背中からは、隠しえない寂しさがにじみ出ていた。寂しいよね、と同調する気持ちのかたわらで、「私だって寂しいんだよ」という、小さな理不尽な苛立ちが私の胸をちくりと刺してくる。
父の寂しさが流れ込んでくる
それから数日間は、葬儀後の事務処理や保険の手続き、お世話になった人へ連絡をとったり、父の介護の手配と、少し入っていた仕事に着手したり。カレンダーを見れば日付は進んでいるのだけれど、なんだか目の焦点が合っていないような、ぼんやりとした日々が続いていた。
母が逝ってから10日経った朝、父が言った。
「お母さんの命日は12月15日だったかな」
それを聞いて、私は目を丸くした。
…合っている。
その日の日付も曖昧な父が、正確な母の命日を覚えているのは奇跡的だ。
「そうだよ。よく覚えてたね!」
父に、新しい情報がインプットされるとは思っていなかった。母がもういないという事実が父の中に刻み込まれている。私は感心しながら、父をデイサービスに送り出した。
母が亡くなったら、父は気落ちして体調を崩してしまうのではないかと、私も家族もみな心配していた。けれどそんな心配をよそに、この数日の父は、なんだか妙にしっかりしている。
その数時間後、デイサービスを終えた父が帰宅するなり言った。
「今日はお母さん、いないんだっけ?」
不意をつかれたように肩を落とした。口ごもり、そっぽを向きながら小さな声で答える。
「……いないよ……。」
「え? 聞こえないよ。どこ行ってるんだっけ?」
「……。」
態度で気づいてくれないかな…と、私は無言を貫きながら父を玄関に置いて自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
「なんで答えないんだよぉ。」
父は不服そうにブツブツとつぶやきながらコートを脱ぎ、なおも声で追いかけてくる。
「ねえ、お母さん、どこに出かけてるんだっけ?」
ドア越しに大きな声で尋ねる父に、私は観念したように不機嫌な声で答えた。
「もうお母さんはいないでしょう?」
顔は見えなくとも、はっ、とする音が聞こえた気がした。一瞬の沈黙のあと、がくっと下がった声のトーン。
「あ…そうか…お母さん亡くなったのか…。」
そうして矢継ぎ早に聞いてくる。「死因はなんだっけ? いつ亡くなったんだっけ?」
また私は押し黙る。もうこれ以上、質問に答えたくない。
私はまだ事務的に切り返せるほど、父の世話人にもなりきれなければ、母が亡くなったことにも慣れていないのだ。
後悔と向き合う
母がいない。その現実とともに、見過ごせない感情があった。
それは、後悔だ。
母が息を引き取る前夜、弱音を吐いた母にもっと寄り添っていればよかった。泊まりこめばよかった。そうすれば、1日でも長く母といられただろうか?
母が最期に着ていた、買ったばかりのXLサイズのTシャツには、痛痒くて体をかきむしった血がついていた。母が逝った後の病室でそのTシャツが返却されたとき、私は即座にそれをゴミ箱に捨てた。
一人で苦しみ続けたその夜を想うと、息が苦しくなった。母の性格上、その姿は子供に見せたくなかっただろうとは思う。でも、本当にそうだっただろうか? 辛いよ助けてと言えなかったのか、言いたくなかったのか? こんなに辛いなら、この姿を見せるくらいなら、死にたいと本気で願っただろうか? それは本当にわからない。
いくら考えても答えはないのに、その疑問はずっと頭の中を右往左往している。