一故人

大林宣彦—キノコ雲を美しく撮れと言った理由

先日亡くなった映画監督・大林宣彦。スター女優を複数生み出し、またメッセージ性の強い作品も世に送り出した映画界の巨人でした。その生涯を「一故人」は、追っていきます。

天安門事件の記憶を空白の画面に込める

映画作家の大林宣彦(2020年4月10日没、82歳)に『北京的西瓜』(1989年)という作品がある。実話をもとにしたこの作品では、千葉県船橋市の八百屋の主人が、ひとりの中国人留学生に野菜を安く売ったのをきっかけに、貧しい留学生たちに何かにつけて世話を焼くようになる。主人は留学生との交流にのめり込むあまり、商売がおろそかになり、出費もかさみ、妻や子供ともぎくしゃくし出す。あげく店を売却する瀬戸際にまで追い込まれる。

だが、やがて世話をした留学生たちが帰国して出世し、主人は妻とともに中国へと招かれる。この場面は、当初の予定では北京で撮影する予定だった。しかし、折しも北京では学生による民主化運動が高まり、政府が軍を出動させてそれを弾圧するという事件が起こる。天安門事件だ。これを受けて中国当局から大林側には、ロケに際しては軍隊を出してでも保護するから来てくださいと連絡があった。だが、実際の空気感を大事にしたかった大林は、穏やかな再会の場面を緊張した空気のなかで撮るのはこの映画の趣旨に反するのではないかと思い、ロケの中止を決める。

劇中では、いったん物語を中断して、八百屋の主人を演じるベンガルの口から、ロケを断念した事実が正直に明かされた。また、夫妻(妻を演じるのはもたいまさこ)が中国に向かうシーンでは、2人が飛行機で出発したあと、画面が37秒間、真っ白になる。37秒とは、天安門事件が起こったその日、1989年6月4日という日付の数字を足したものだ。大林は後年、画面を空白にせざるをえなかったことを映画にとっては敗北だとしつつも、そうすることで留学生たち(出演したなかには中国人の俳優だけでなく本物の留学生もいた)と中国で再会できなかった事実を、記録ではなく記憶として残そうとしたのだと説明した(『北京的西瓜』DVD「ディレクターズ・トーク」)。完成した映画は世界各地で上映され、観客はこの空白の画面が出てくるたび、立ち上がって拍手を送ったという。もっとも、肝心の中国では上映されなかった。

「映画は時代を映す鏡であり、風化しないジャーナリズムである」というのが、大林の持論であった。『北京的西瓜』は、中国の民主化を支持したり政府を批判したりといった政治的主張からはかけ離れた作品である。それでも、空白の37秒からは、否応なしに天安門事件について考えさせられてしまう。

代表作『時をかける少女』をはじめ、大林映画にはファンタジックな印象が強いので、こうしたジャーナリスティックな一面は意外に思われるかもしれない。しかし、それは彼が商業映画を撮る以前から徐々に身につけていったものであり、のちの作品にも脈々と息づいていたものである。ここで彼の足跡とともに、その過程を追ってみたい。

映画を観る前に映画をつくってしまった監督

大林宣彦は1938年1月、広島県の 尾道 おのみち に生まれた。生家は、父方・母方ともに先代から続く医者の家系だった。時は日中戦争のさなかであり、父は翌年には軍医として戦地に赴く。彼は母の実家に身を寄せ、終戦を挟んで高校を卒業するまですごした。港町だった尾道には、戦前は外国船も寄港していたため、珍しい積み荷があるたび、港の人は母方の祖父のもとに持ち込んだ。祖父の家の蔵にはそうした品々がたくさんしまわれていた。蔵の中が遊び場だった大林少年は、やがてそこで映写機を見つける。それは映画館でも使える、35ミリフィルム用の本格的なものだった。彼にはそれが蒸気機関車のおもちゃに見えたという。一緒についていたフィルムを石炭だと思い込んで、しばらく遊んでいたが、やがてそれらが絵を映し出す機械であることに気づいた。

それを知ると、自分でフィルムを切り貼りして映写したり、ついには自分でフィルムに絵を描いて、その絵を動かすようになる。1945年、7歳のときには、祖父をモデルにした『マヌケ先生』という3分ほどのフィルムをつくっている。じつはこのとき、彼はまだ映画館に行ったことがなかった。《世界でも珍しい、ぼくは「映画を見る前につくってしまった」映画監督なんです》とは晩年の自伝での言である(『大林宣彦 戦争などいらない―未来を紡ぐ映画を』)。

町の映画館に行き出したのは小学校ぐらいからだった。当時の尾道には9つの映画館があり、かけるフィルムが足りないので、新作だけでなく、音声のなかった昔のサイレント時代の映画までひっぱり出してきては上映していたという。戦争が終わると、どの映画館も2~3本立てが当たり前、なかには4本立てというところもあった。大林はそれら映画館へ毎日映画を観に行っていた。そのころには、戦時中は敵国だったアメリカの映画もドッと入ってくる。それも新作・旧作取り混ぜてで、なかにはかなり古いものもあった。そのため、西部劇の代表的スターであるジョン・ウェインの出演映画でも、まだ20代で演技も下手だったころの映画をやったかと思えば、翌週にはジョン・フォード監督と組んだアカデミー賞受賞作が上映されるというようなこともよくあった。そんなふうに日々映画を観るうちに、大林は知らず知らずのうちに映画史を学んでいく。のちに映画を撮るようになってから、それが大きな財産となった。

映画を観るため学校をサボることも多かったが、町医者の息子で、成績も悪くなかったので、教師からは大目に見てもらっていたようだ。映画の主人公になりきるのも好きで、母親も衣装を用意するなどよく協力してくれた。周囲の大人たちの理解があったおかげで、大林の創造力は育まれていったといえる。

高校卒業を前に、父の跡を継ぐべく、東京の慶應義塾大学の医学部を受験しながら、試験を初日で離脱したときもそうだった。そのことを帰宅した彼から告白された父は、怒りもせず「じゃあ、おまえは医者にならないんだな。何になるつもりだ」と穏やかに聞いてくれた。これに対し彼はとっさに「じゃあ僕、映画をつくるよ」と口にする。もっとも、どうすれば映画で生きていけるのか、この時点では皆目わからなかった。ひとまず東京に出れば映画館はいっぱいあるし、毎日映画を観て暮らせると、高校卒業後に再び上京する。東京で1年間浪人生活を送るうち、成城大学に当時としては珍しかった映画科があるのを知り、翌年受験して入学する。

上京するにあたって、父から自分の使っていた8ミリカメラと、フィルムを3ロールだけ餞別代わりにもらっていた。入学して4~5人の女子学生のグループと知り合い、そのカメラで撮らせてもらううちに仲良くなる。そのなかにいたひとりと、まずグループ交際から始め、やがてプロポーズして学生結婚する。のちに大林の映画のプロデューサーを務めることになる恭子夫人だ。

フィルム代を稼ぐため、映画館で上映される商店街のPR映画を撮るアルバイトも始めた。ただ、浪人中、映画会社に入るには東大や京大、早稲田あたりの大学を出ていなければならないことがわかってきた。たとえ入社しても、必ず監督になれるわけではない。撮影所でこき使われ、同期の社員ともしのぎを削りながら修業を積み、そのなかで残った者だけがようやく映画を撮らせてもらえた。当時はそうしたシステムが確固として存在した時代だった。それを知って以来、大林は自分の映画が映画館で上映されることはないと思っていた。

コマーシャルの世界で才能を発揮する

20歳のとき、名刺をつくるにあたって「映画監督」ではなく「映画作家」と名乗ったのもそのためだ。映画監督とは映画会社の社員が名乗るものである。それに対し、自分は画家や小説家のようにひとりで映画をつくる人間だと考え、この肩書に決めたのだった。使うフィルムも、撮影所と同じ35ミリフィルムで撮るのはちょっと違うんじゃないかと思い、もっと自由に映画がつくれる8ミリや16ミリを選んだ。こうして商店街のCMで稼いでは、本格的に作品を撮り始める(大学は結局5年で中退した)。1960年初めのこのころ、あちこちで映画を個人でつくる人が現れていた。ある映画専門誌の編集長の呼びかけで上映会が行なわれ、そのとき一緒になった高林陽一と飯村隆彦と親しくなる。

1964年には飯村の提案により、新宿の紀伊國屋ホールで「フィルム・アンデパンダン」と題して、120秒のショートフィルムを各方面から募集してイベントが開催される。120秒フィルムが上映された第1部に続き、第2部では短編映画を集め、大林も『complex=微熱の 玻璃 はり あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』という約15分の16ミリ作品を出品した。

これを観て大林に声をかけてきたのが、テレビコマーシャルをつくっていた広告代理店のプロデューサーたちだった。当時はまだコマーシャルは映画会社で仕事にあぶれたカメラマンがやっているような状況で、制作者たちはスポンサーである企業からも軽く扱われていた。企業と対等に話をするには演出家が必要だと考えて、プロデューサーたちは大林にコマーシャルの制作を打診してきたのだ。なかでも同い年の電通の小田桐昭には、初対面時に「ぼくは生涯を懸けてコマーシャルを世界に誇れるジャーナリズムにしてみせようと思っています」と言われ、そこに新しいエネルギーを感じ、つきあってみようと思ったという。

このころ実験映画を撮っていたような人たちは、カネの話も、CMのようなテーマのないものも嫌っていたので、広告代理店側は大林に声をかけてきたのも恐る恐るであったらしい。しかし大林にしてみれば、CMづくりの現場は夢のような世界だった。当時、すでに日本の映画業界は斜陽で、使えるフィルムの量も減っていた。それに対しCM業界ではふんだんにフィルムが使えた。しかも技術的にもさまざまな実験ができるCMに、彼は大きな可能性を抱く。ギャラも1本撮るごとに倍に増えていった。大林はそのギャラで念願の16ミリのカメラを入手する。それを使って1966年に自主制作した『ÈMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』は国内外で高い評価を受け、全国の大学でも上映されて多くの学生が観たという。

もっとも、大林のなかでは、CMも自主映画もとりたてて区別はしていなかった。CMでは俳優選びから、どんな画やストーリーにするかまで任せられ、彼に言わせれば、スポンサーつきの個人映画のようなものであった。70年代に入ると、CM界で海外ロケブームが起こる。そこでは海外の大スターが続々と起用された。ハリウッド俳優のチャールズ・ブロンソンが出演し、大林が撮って大ヒットした男性用化粧品「マンダム」のCM(1970年)はその嚆矢である。以来大林は、ソフィア・ローレン、カトリーヌ・ドヌーブ、カーク・ダグラスなど映画スターの登場するCMをあいついで手がけることになった。のちに彼は、コマーシャルづくりの体験を次のように振り返っている。

《それまでのぼくは、単なるフィルムマニアでしかなかったと思う。だけどコマーシャルに関わるようになって、プロデューサー的な眼が育てられました。つまり、ジャーナリストになったということです。さらに言えば、観客の眼で自分の作品を見ることができるようになったと言いますか、もう一方の眼を鍛えてくれたのがコマーシャルでした。つまり、ジャーナリスト、プロデューサーとしての眼が備わったのがその後のぼくにとって、どれだけ役に立ったかわかりません》(前掲書)

故郷・尾道からのブーイング

CMと自主映画でその名を知られるようになった大林に、1975年、東宝から劇場で公開する映画を撮ってくれないかという話が舞い込む。これを受けて、彼は檀一雄の小説『 花筐 はながたみ 』を原作に撮りたいと提案したが、文芸映画なら東宝の監督でも撮れると却下されてしまう。東宝側は、そのころヒットしていたスピルバーグ監督の『ジョーズ』みたいなものをほしがっていた。しかし『ジョーズ』で人を襲うサメを、クマやネズミなどに置き換えたところで同工異曲にすぎない。

悩んでいたところ、当時11歳の娘(現在、映画家・料理家などとして活動する大林 千茱萸 ちぐみ )が、風呂上がりで鏡を見て髪をとかしながら、「この鏡に映っている私が、私を食べにきたら怖いね」と言うのが耳に入った。鏡に映っている自分が自分を食べにくるとは、『ジョーズ』とはまったく違う発想だ。興味を持った大林は、彼女にほかに何を食べるか訊いてみた。すると「ピアノを練習していると、ときどき指が疲れて、ピアノの鍵盤が私に噛みついてくるような気がする」とか、いろんな話が出てきた。これは面白いと思い、翌日に脚本家の桂千穂とストーリーに仕立てて、東宝に提案した。『HOUSE/ハウス』と題するこの話はウケて、すぐに企画会議を通った。

だが、そのころ、東宝のような大手の映画会社ではまだ、外部の人間が映画を撮るということは基本的にありえなかった。かといって、東宝社内の監督に任せるにも、「こんなバカバカしいホラー映画を誰がやるか」と引き受ける人がいなかったらしい。そんな事情により、東宝からはすぐに映画にはならないと告げられてしまった。それならと、大林はこのストーリーを出版社に持ち込んで、少年誌と少女誌でコミカライズし、さらには小説・レコード・ラジオドラマ化と、数年かけてさまざまなメディア展開を試みた。かつて大林の自主映画を観た大学生が、このころにはマスコミの責任ある地位につき、積極的に協力してくれたのだ。メディアミックスは評判をとり、提案から2年が経った1977年、ようやく映画化が実現する。このとき彼はすでに39歳になっていた。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

donkou きょうは偶然にも、私の書いた追悼記事が2本公開されました。1本目はケイクスの連載「一故人」 4ヶ月前 replyretweetfavorite

TKKadanny 映画を観た人の心に何が残るか。そこからの逆算をしていた人のように思える。すべての作品を順番に観てみたくなった: 4ヶ月前 replyretweetfavorite