​チョンキンマンションと現代ニッポン

大宅壮一ノンフィクション賞と河合隼雄学芸賞を受賞した、小川さやかの話題作『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)。今回の「新・山形月報!」は、本書を徹底読解します。重慶大厦から日本へ目を転じると、何が見えてくるのでしょうか……!? さらに著者の前著『「その日暮らし」の人類学』(光文社新書)や、阿甘『中国モノマネ工場』(日経BP)も紹介します。

コロナ戒厳令のおかげで、本業の開発援助方面でもまったく外国に行けない状態で、ホントどうしようもない。とはいえ、主な対象だったキューバは、コロナ以前からトランプによる「制裁」強化でかなり行きづらく、行ってもガソリンがないので、ハバナ市内で打ち合わせやヒアリングに行くのも一苦労という状況ではあったんだけれど。

キューバも当然コロナの影響は受けているんだが、そんなにひどくはない。もともとガソリン不足で人の市内の往き来もままならない状態だし、伝染も限られているせいもあるんでしょう。それに現地の医療の状況もある。実はちょうど、これを書いているときにキューバのコロナからの回復ロードマップが示されたところ。それでも、すぐにハバナに行ける状態ではないし、他の国も仕事にならない。おかげで、いろいろ本で旅行気分を味わうしかない。

それもあって、長いおやすみの間に外国ネタはいろいろ読んだんだけれど、その中でピカイチにおもしろかった本としてまっ先に挙げたいのが、小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)。


チョンキンマンションのボスは知っている:アングラ経済の人類学

香港のチョンキンマンションこと重慶大厦といえば、かつてはバンコクのカオサンロードと並んで、バックパッカーたちが最初の洗礼を受ける定番の拠点だ。ぼくもそうだった。エレベーターが少なすぎるうえに常に満員なので、ガイドブックには危険と書いてあった裏階段ばかり使っていたんだけど、そこにはビンロウジュの汁を吐いた赤い跡が大量にあって、これはまさか血だろうかと何も知らずビビっていたのは、今となってはいい思い出ではある。

そして、そこで出くわすのはベニヤで仕切っただけの、冷房すらない消防なんて度外視の囲いみたいな宿、衛生状態無視の、安いだけのクソまずいレストラン(お腹こわすところまでセット)、隙あらば金勘定をごまかそうとする両替屋、そしてそこらに徘徊するインチキ商品を売りつけようとする物売りの洪水と、何やら巨大な荷物をビニールテープでぐるぐる巻きにしてかついでいる、明らかに現地人ではない人々。

もはや香港もバンコクも豊かになったし、もうあまりセコいバックパッカー相手の小銭稼ぎなんか面倒だし、一方で旅行者もどんどん小金持ちになってぜいたくになったから、この前半で描写した側面は後退し小ぎれいになる一方だ。でもこの最後の怪しい非現地人たちの商売は健在。この本は、そうした非現地人、特にタンザニアからの出稼ぎ/買い出し人たちのコミュニティに入り込んだ文化人類学調査/ルポとなる。

著者の調査対象は、そのタンザニア人たちの顔役みたいなおっさんだ。といっても、顔役というのは半分自称、半分はったり、半分は実力、半分は詐欺、合計がなんか合わないがそういうもの、という感じ。タンザニアから買いだしや出稼ぎにやってきた人、あるいは著者も含め、何かしらこの地でとっかかりの欲しい人は、この人と接触を持つと非常に便利だ。あちこち紹介してもらえるし、飯も食わせてもらったりできる一方で、ときにパシリをやらされたり、ただ働きさせられたり、ダマされたりもするし、動画や宴会その他でさんざんダシには使われる。著者はあちこちで、このボスなどにやたらにお金をむしられ、さらにSNSなどでは日本人情婦ということにされてしまっているという。

で、実際に商売上の実力はないわけではない。中古車輸入商売とか、中国のパチモンケータイや宝石商売その他、いろんな経験はあるし、確かに人は知っているし、ちょっとヤバい事態を救ってくれるような力はある。まだ見極めのつかないリスキーな仕事では非常に便利。でもその一方で、商売相手としては全然信用ならないし、安定した取引は絶対できない。本書はしょっぱなから、こういう変な人物=チョンキンマンションのボスの変な人間関係を次々に描きだす。ここらへんのキテレツさは、ちょっと他に比類がない。計算高い有能さと、どうしようもないダメ人間ぶりが見事に共存している。

だが何よりおもしろいのは、この御仁が安定した商売のできない、信用ならない人物なのは、必ずしもだらしない規律の欠けた人物だからというわけじゃないこと。取引のある企業は、おまえがもうちょっと約束通りに打ち合わせくるとかしたら、もっとでかい仕事を任せられるのに、とグチる。でもそれに対してこの御仁は、そう言われてハイハイということを聞いたら奴隷になっちまう、とうそぶく。自分の独立性を守るために、敢えて約束をすっぽかすのだ、と。

本書のおもしろさは、この御仁の考え方も行動も、ぼくたち日本の小市民とはまったくちがうところにある。そしてそのちがいが最もはっきり出ているのが、この部分だと思う。ぼくや本稿の読者のほとんどは、もうちょっとでかい仕事を任せるからカタギになれ、と言われたら、ホイホイ尻尾を振って言うことを聞くだろう。明日からはネクタイを締めて御用聞きにまわり、「オレもいつまでもバカやってられねえからな」と遠い目をしてみせる—青春ドラマのありがちなパターンだ。が、この人物はあえてその奴隷の安定を捨てて、己の自由とプライドを選ぶ。ぼくたちはそれを見て、この人物は、以下のどれかだろうと思う。

1. 単なるバカ
2. 出し惜しみで自分の価値を吊り上げようとする虚勢
3. 単に規律がなくて約束守る根性や気合いがないのに強がってるだけ
4. 短期の我慢で長期の利得を取るだけのこらえ性がない未開人
5. まったく考え方のちがう宇宙人

多くの人にとって、実はこの5つはすべて同じ意味だったりする。そしてもちろん、こんな御仁はいまの日本にはいないよ、とみんな漠然と思っている。そして著者も、そこを狙って本書を書いている。

が……よく考えると、実はこういう人は、日本にだっている。セコいところでは、物書きとか。特に古いタイプの文士様はしばしば、自分がいかに締め切りに遅れたか、なんてことを自慢げに語る。まあこれは、小学生のやる「だれがいちばん長く息を止められるか」みたいなくだらない自慢合戦で、少しちがうかな。でもそれ以上に、たぶんファイナンスの勉強をした人なら、この人が何をしようとしているのか、ピンとくるんじゃないか。この人は基本、オプション価値だけで生きているのだ。

世の中の商売の多くは絶対確実というわけじゃないけれど、だいたい期待値で動く。たとえば年に100万円の仕事を10本受けて、こっちの進捗が遅れたりコロナだったりで一割くらい取りっぱぐれても、年間900万入ってくるから喰っていけるな、という計算だ。

でも、そういう短くコツコツ当てる以外のやり方がある。広く薄くばらまいて、そのどれかがデッカいホームランになる可能性に賭けるやり方だ。オプション価値というのは言わばそういう考え方だ。実際にそれがホームランになるかどうかは、ある意味どうでもいい。というか、そこに白黒がついた瞬間にオプションの価値はゼロとなる。でも、小さいけれどホームランが出る可能性があるなら、それまではそれを完全に捨てる必要もない。手付金だけ払って関係を保っておくほうが得策だったりする。オプションというのは、いわばその手付金だ。

その商売だけの期待値で見れば、このボスの中古車商売も宝石も人材紹介も運び屋も、必ずしもよくはない。でも、どれかでっかく当たる可能性もある。それ以上に、別の何かにつながる可能性もある。世話をした人がたまたまジェフ・ベゾスになるかもしれない。そこに一枚噛んでいたというだけでいろいろいい目に会える可能性もある。その可能性を維持するためにみんなが払う手付金を集めれば、チマチマ真面目に働くよりも割はいいかもしれない。この御仁は、まさにそういう発想をしている。そして、そうしたコネを維持するためには、真面目な昼間の仕事はかえって邪魔かもしれない。

そしてそういう生き方は、実は日本でも結構たくさんある。政界とか芸能界、イベント屋なんかでは「フィクサー」とか言われる人がいる。自分では何も作れない。頭も悪いことも多い。でもいろんなところ、いろんな人に顔がきく。少なくとも、そういうふりをする(8割はウソだ、というのはだんだんわかってくる)。ときどきぼくみたいなヤツにすら、そういう人がすり寄ってきて、ご飯やお酒をおごってくれたりする。そして自分がいかにいろんなところにコネがあり、各種手配ができて、えらい人と知り合いで、みたいなことをやたらに誇示し、そういう人たちといっしょに撮った写真を得意げに見せてくれる。たぶん他所にいったら、いまぼくがいっしょに撮った写真もこうやって使われて「山形さんとは知り合いでー」みたいな話に使われてるんだろうね。

それどころか、日本の大企業ですら、本部長クラス以上の人というのはまさにそれが仕事だ。実際に商品作って品質管理して売って—それは現場の仕事だ。でも上の人は様々な人と会い、コネを作り、次の商売の種を見つけ、何ならお金をあちこちばらまいて変なものも試してみる—それはこのチョンキンマンションのボスがやっていることと決して遠くない。彼のやっていることが異様でおもしろく見えること自体、ある意味で日本企業の衰退の裏返しでもあるのかもしれない。

そしてオプションの価値は、リスクが大きいほど上がる。すでに軌道に乗った商売は、リスクが低い。それは普通の期待値と品質管理でまわせばいい。でも、今後の商売を考えるのはきわめてリスクが高い。チョンキンマンションのボスだって、まさに立場的にリスクの非常に高いところにいて—香港での法的な立場すら必ずしも安泰かわからない—やっていることも決して地道に安全とは言いがたい。だからこそ、ふつうの期待値商売を蹴飛ばしてまで、オプション価値に基づく生き方を選ぶことに合理性がある。

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新・山形月報!

山形浩生

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

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コメント

moyahima https://t.co/H5yXIRGwBe 5ヶ月前 replyretweetfavorite

lamchung09 今はさすがにVCD売ってないだろうな チョンキンマンションと現代ニッポン|山形浩生 @hiyori13 | 5ヶ月前 replyretweetfavorite

kobunsha_promo 光文社新書『「そのひぐらし」の人類学』(小川さやか著)が紹介されました。 https://t.co/VjuIIYPmPG 5ヶ月前 replyretweetfavorite

kobunsha_shin 大宅賞受賞作とともに、小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学』を山形浩生さんが紹介してくださいました! ありがとうございます!/チョンキンマンションと現代ニッポン|山形浩生 @hiyori13 | 5ヶ月前 replyretweetfavorite