天保六年の年の暮れ。次郎長、いつものように早起きして嗽手水に身を清めて、さあ、今年もなんとか年を越せそうだ。親爺が死んでからこっち俺も随分と苦労ばかりだが、そうも言ってらんねぇ。甲田屋を盛り立てるという親爺との固い約束があるから。
そう思って次郎長が店に出ると、なんだか店の様子がおかしい。
なにがおかしいって番頭を始め、店の者一統が朝からボンヤリして、虚脱したように立ち尽くしている。
「言わんこっちゃない」
次郎長は苦々しく思い、番頭をガミガミ叱りつけた。
「俺だって朝からこんなことは言いたくもねぇが、店一統の者がこの有り様じゃあ、言いたくもなるじゃねぇか。なんでぇ、おめぇまでボンヤリしちまって。しっかりしねぇか」
ところが糠に釘、番頭は要領を得ぬ顔でフガフガ言っている。
「なんだい。はっきり言いなさい」
叱られて番頭はようやっと言った。
「おか、おか」
「おか?」
「おかみさん」
「おかみさん、って言やあ、お直さんのことじゃねぇか。俺のお養母(っか)さんだ。それがどうかしたのか」
と言われて番頭の伊八、ようやっと、
「そのお直さんの姿が今朝から見えませんので」
と言われて次郎長は首を傾げた。
それくらいのことはこれまで何度もあったからである。そこで次郎長は言った。
「するってぇとなにか。おまえさんはあの方がいらっしゃらないと店が開けられないのか。店の者はあの方がいらっしゃらねぇと掃除もできねぇのか」
「いや、そうじゃないんですが」
「だったらなんなんでぇ」
「実は昨日の夜からお帰りがないんです」
と聞いて次郎長は、やや意外に思った。というのは直はこれまでも無断で家を空けることが多く、次郎八没してより後は、よりいっそうそれが頻繁になったが、ひと晩、家を空けてよそに泊まるということはさすがになかったからである。
「そうなのかい」
と言う次郎長に伊八は重ねて言った。
「それと……」
「それとなんだい」
「着物やなんかもないんです」
「着物がない。はて。そりゃどういうことだ」
「ええ、ですから私が思いまするに、おかみさんは家出をなされたのではございますまいか、と」
言われて次郎長は思わず大声を出した。
「家出? そりゃおまえ、つまり」
「つまりなんでございます」
「つまり、家出じゃねぇか」
「さようでございます」
「そうかー」
と歎息、腕組みをして考えた次郎長は、すぐにあることに気がついた。どういうことかというと、別に直が家出をしたからといって困ることはなにもないということである。
というのは、はっきり言って直は厄介者。先代の後家であることを理由に、余計な口出しをする、次郎長の悪口を言って歩く、役者と飲み歩く、三味線の弾き語りをする、贅沢三昧、やりたい放題で、逆にいなくなってくれたほうがよほど助かるのである。
強いていえば、外聞の悪いことくらいだが、そんなものは既に悪いので、いまさら気にする必要もない。要するに直が家出をしたと云うことは、日に日に衰えていく甲田屋を立て直すためには寧ろよいことなのじゃないのか。
そのように考えた次郎長は番頭に言った。
「家出、けっこうじゃねぇか。居なくなって言う訳じゃねぇが、あの人にはおらあ、随分と苦労してたんだ。言っちゃ悪いが、いま甲田屋が左前なのも、大方はあの人のせい。出てってくれたことはかえっていいと俺は思うが、番頭、おめぇ、そうは思わねぇか」
「へ、へぇ、さようではございますが」
「ございますが、なんだってんだ」
「店のお金がないのでございます」
「はあ?」
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