ザックはパソコンの画面をぶっ続けで見ていた。今夜は書くと誓った、『タイムズ』紙向けの書評の言葉がまったく出てこない。言葉はある。間違った言葉が。ノーラの言葉が。だがザックが必要とする言葉がないのだ。
“変態じゃないわね” 彼女はザックの耳にささやき、長く放置されている体のあらゆる神経に火をつけた。“ヴァニラでもない……” ノーラ……。なぜ彼女を恐れる人がいるのか、いまになってわかった。僕は彼女を恐れている。僕のあらゆる思考をとりこにする彼女のパワーが恐ろしい。ノーラの近くにいると、ともづなを解かれたような危険な感じがする。それでいて、ニューヨークに来て以来出会った人々の中で、彼女だけが信頼できるような気がする。
女の意識の奥深く……。彼女の言葉に呼び起こされてあふれるイメージを無駄に食い止めようとした。グレースの白く柔らかな肌。僕の胸に密着する彼女の背中。僕はグレースの手に手を重ね、うなじに唇を当てて彼女の中へ突き進む。グレースの肉体はかつてとても彼に開かれていた。でも意識は? 心は? ザックは首を振り、危険な物思いから抜け出そうとした。グレース。数えきれないくらい愛を交わした人は、何も語らない。そしてノーラ。手もふれたことのない人は、あらゆることを語る。
ふと思いついて、ファイルを最小化し、グーグルを開いた。ノーラは、まるで奇病の名前を論ずる医師のように、SMの専門用語を口にした。変態性愛については、まったく無知というわけでもない。昔の恋人には、ザックが正常位以外の体位を好むからといって、変態だと責められたくらいだ。SMが何を意味するかはちゃんと知っている——サドマゾヒズム。フランス人はそれを“イギリス人の悪癖”と呼ぶ。それはザックの国の人間が肉体的処罰に異常にこだわるからだ。僕は違う——苦痛を与えるのも受けるのも、可能であればつねに避けてきた。セックスの最中に少し噛む癖がある。グレースはそれがずいぶん好きだったけれど、実際に叩いたり鞭打ったりするのは完全に範疇外だ。
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