自作の小説を朗読する仙田学
——子どものしつけ講座、参加者募集中! 「怒らない子育て」を学びませんか?
というチラシを見つけたのは、週末になるとよく子どもたちを連れて通っていた児童館。
まだ離婚する前で、長女は3歳、次女は1歳だった。
当時住んでいた東京都武蔵野市の市役所に、私は参加申し込みの電話をかけた。
長い戦いの幕開けになるとは知らずに。
男性の参加はお断りします
「すみません、男性の参加はお断りしています。奥様だけのご参加でお願いいたします」
返ってきた職員の返答はそっけなかった。
ああそうなんだ、とそのときは思って電話を切った。
だが改めてチラシを確認してみると、参加対象者は3歳から小学校3年生までの子を持つ親、とあるだけで、「男性はお断り」とはどこにも書かれていない。
疑問に思った私は、市役所にかけ直してみた。
「夫婦で参加したいんですけど。男親は参加できないなんて書いてないですよ」
「お調べいたしますのでお待ちください」
業務が立てこんでいたらしく、折り返しの電話がかかってきたのは翌日だった。
「しつけ教室ですが、男性の参加者は前例がないということで、お断りさせていただいております」
意味がわからなかった。
これまで男性が参加したことがなかったとしても、それが新規の男性参加者を拒む理由になるとは到底思えない。
この瞬間に頭のなかでゴングが鳴り、私は戦うことにした。
職員と押し問答
「じゃあこれを新しい前例にすればいいんじゃないですか? これまでに前例がないから受け付けられない理由を具体的に教えてください」
元妻からは、「やめなよ。もういいじゃん。恥かしいよ」と止められたが、止められれば止められるほど、私はムキになった。
1時間ほど職員と押し問答を続けた挙句、この件は年配の保健師さんに引き継がれることになった。
改めて一連の流れを説明して、参加できないかと聞いてみた。
「やはり男性の参加者は前例がないですし、他の参加者が嫌がれるかもしれないので……」
「嫌がられる、とはどういうことでしょう?」
「講座のなかで、参加者が親役と子ども役に別れてロールプレイングをするんです。だからそこに男性が混じってると恥ずかしいっていうママさんもおられますので」
ますます意味がわからない。
「そのロールプレイングって、性的なことをするんですか?」
「いえ、そういうわけではないんですが」
保健師さんの受け答えは何とも歯切れが悪い。
というより、ロールプレイングの内容がとても気になった。
男性が混じってると女性が恥ずかしがるロールプレイングとは?
1時間ほど保健師さんと押し問答を続けてから、私はこう提案した。
ママさんたちの反応は
「すでに申し込みがあるのは、女性が7名なんですよね。
じゃあその7人全員に電話をして、『男性が参加したいと言ってるけどいいですか?』って聞いてください。
ひとりでも嫌だという人がいれば諦めます。
その代わり、全員がOKだったら参加させてください」
保健師さんは困惑した声で、係の者と検討してみます、と電話を切った。
その後も私は毎週のように市役所に電話をして進捗確認をした。
他の業務に追われているらしい保健師さんはいつもなかなか捕まらず、電話にでても、7人のママたちとの連絡は遅々として進んでいないようだった。
せっつくこと2ヶ月、ようやく7人全員の確認が取れた。
結果的には全員が「パパさんが参加されるんですか? 全然いいですよ~」みたいな反応だったらしい。
私は晴れてしつけ講座に参加できることになった。
しつけ講座は市役所の会議室で行われ、月に1回ずつ、半年間のコースになっていた。
別室に託児所があり、子どもたちはそこに預けて夫婦で参加した。
7人のママたちはいずれも単独で参加していて、「この人たちに保健師さんが許可もらったんだな」と思うと感慨深かった。
コモンセンス・ペアレンティングから教わったしつけとは
コモンセンス・ペアレンティングの教え
「コモンセンス・ペアレンティング」という、アメリカの児童養護施設が開発した、親向けの育児プログラムの技術を持つ講師の方が2人こられていて、その講師を囲んで私たちは輪になって座った。
最初に2人ひと組になって、ひとりは椅子に座り、ひとりは立って向いあう。
その状態で、立っている側が座っている側に話しかける。
座っていた私は、立っている元妻から「こんにちは」と話しかけられて、椅子から転げ落ちそうなほどびっくりした。
いや、怖かった。
「そうですよね。子どもから見れば、大人ってすごく大きいんです。
自分より2倍3倍大きい人から話しかけられると、威圧感がすごいんです。
だから、お子さんと話すときにはしゃがんで、同じ目線になって話しましょう。
お料理をしたり洗濯物畳んだりしながら、お子さんに背中を向けたまま、『テレビ消しなさい!』って言っても、お子さんには聞こえてません。
大人だって、テレビ見てるときに後ろから話しかけられても頭に入ってこないですよね。
伝えたいことがある場合には、お子さんのそばに行って、目線をあわせることから始めましょう」
予防的教育法
その後にビデオを見せられた。
子どもが「問題行動」を起こしているシーンがドラマ仕立てで撮られたもので、それを見終わった後に、親はどう接すればいいのかみんなでディスカッションをする。
それが終わると先生から正解を教えられ、私たちは2人ひと組に分かれて、親役と子ども役になってロールプレイをする。
たとえば、子どもがスーパーではしゃいで走り回っていて、いくら注意してもやめない。
そんなときには、子どもは話を聞く体勢になっていないので、ガミガミいっても仕方がないと諦める。
そして、次にスーパーに行くときには事前に目をあわせながら、「スーパーに行ったら、カートを一緒に押して静かに歩こうね」と約束をする。
さらに、シミュレーションをする。
家のなかを店内に見立てて、カートを押しながら歩く練習をするのだ。
これは「予防的教育法」というらしい。
予想できる「問題行動」に対しては、事前に約束をしてシミュレーションをする。
ポイントは、子どもが落ち着いて話を聞く体勢にあるときに、しっかりと目を見てコミュニケーションを取ること。
このようなしつけの方法を、毎月少しずつ教わった。
それらを生活のなかで実践する宿題もあり、半年間はあっという間に過ぎてしまった。
多くのことを教わったが、内容はほとんど覚えていない。
だが、コモンセンス・ペアレンティングのエッセンスの部分だけが箇条書きにされた名刺サイズのカードはいまも財布に入れていて、たまに見返すことがある。
子どもが生まれる前に考えた「しつけ」の意味
しつけとは何なのか、ということは、長女が生まれる前にも考えたことがあった。
同じ武蔵野市の市役所で開かれた、妊婦さんとパートナーを対象にした「こうのとり教室」に参加したときのこと。
20人ほどの参加者全員でベテラン助産師さんを囲み、出産・育児を控えての心構えをあれこれ聞いた。
最後のほうで、助産師さんからこんな質問があった。
“「しつけって何だと思います?」
講師の問いかけに、受講生たちは順繰りに答え始める。口を挟む者は誰もいない。自助グループでの言いっ放し聴きっ放しのルールを洋治は思いだした。だがここでは過去を話す者はいなかった。まだ形も大きさも重さもない未来を皆で寄ってたかって言葉にすることで、それぞれがどうにかこうにか実感しようともがいていた。
善いこと悪いことを教えることだとしたら、僕にはよくわかりません。悪いことなんてそんなにないと思っていて。ただ自分を傷つけること、それから他人を傷つけることはして欲しくないから、それだけは教えたいと思ってます。後は、自由に、わがままに生きていってくれれば。全肯定したいです。社会の役に立つかどうかとか、誰と付き合ってるかとか、そんなこと以前に、生まれてきたこと自体が奇跡みたいなものなんだから、それだけで自分を誇れるようになって欲しい。その他のことは、たいていどうでもいいって思えるような、強さを身につけて欲しい。僕みたいな弱い人間にならなくて済むように。
隣の席で、華は泣いていた。他の受講生たちが話しているあいだもずっと。講座が終わった後に、エプロンを着けた保健師が華に近づいてきた。目で察して洋治は離れる。しばらくして華は戻ってきた。どうだったと聞くと、なんでもないです、と笑ってみせた。その涙の意味を、洋治は長いあいだ知ることができなかった。”
以上は、長女が生まれて間もない頃に書いた小説「愛と愛と愛」の一節だ。
実体験をそのまま小説に書いた。
つまり、私は当時しつけについてこう考えていたし、元妻はその考えを聞いて泣いていた。
なぜ泣いていたのかは、いまもわからない。
ナイーブな状態
この小説は、長女が生まれて間もない頃に起きた、ストーカー殺人事件を題材にして書いた。
被害者の女子高校生は、芸能活動をしていて高名な脚本家の姪でもあった。
SNSで知りあった男性(有名私立大学の学生だと嘘をついていた)と付きあったが、別れ際に何らかのトラブルに発展し、ストーカー行為を受けた。
男性は事件直後に、彼女から送られていた数十枚の裸の画像をネットにアップした。
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