夏休みは、終わりがあるからよかったのだ。最近よく思う。
新型コロナウイルスの感染防止のために在宅ワークが始まってから3ヶ月が経つ。IT系の会社に勤めていることもあって、「外出自粛」への対応は早い方だったと思う。PCさえあれば完結する仕事が多いし、環境の変化には順応しやすかった。幸い、近所のスーパーはいつもどおり営業していた。
それでも、トイレットペーパーやマスクが買い占められ、緊急事態宣言が発令した当初は、カップラーメンやレトルト食品が店頭から消えた。Twitterには「買い占めはやめよう」「デマに流されないで」といった注意喚起のツイートが並び、買い占めをする人たちを見つけては晒しあげる自警団のような投稿もあちらこちらで見かけた。
世界中でDVの被害も増え、騒音などのご近所トラブルで殺人事件まで起きるようになっていた。「引っ越しも検討しないと…」と焦燥しきった同世代の新米パパママたちのツイートも流れてきた。
一方で自炊生活は充実していたし、居酒屋のテイクアウトも楽しんでいた。終電で帰ることが多い私にとって、足元の暮らしを見直せるいい機会でもあったのだ。調味料でいっぱいになった冷蔵庫を見ると、ずいぶんライフスタイルが変わったように思える。カレー、ゴーヤチャンプル、麻婆茄子、春菊の胡麻和えにたまご焼き。本当にいろんな料理を作った。巣ごもり生活も案外悪くない。そう思うことも多かった。
毎日がゆっくり進んでいく。通勤の手間がなくなり、快適に仕事ができるようになった一方、取材はいくつかペンディングになった。これまでせわしなく働いてきたので、想定外の空白はどこか不気味に思える。
しばらくすると、企業の倒産や店じまいのニュースをよく見るようになった。感染防止のためにストップさせた経済活動のひずみが、じわりじわりと空気を満たしていく。街に人通りは少なく、都市は文字通り眠ってしまったみたいだった。
一体いつまでこの状況は続くのだろう? 大きな事故や災害とは異なり、コロナウイルスの場合は先が見えない。いつの間にか、ぼんやりとした不安が横たわるようになっていた。永遠に続く夏休み。夏休みは8月31日に終わってしまうから良かったのだ。
会話のやり方すら忘れていっているような気がする。なんて話しかければいいのかわからない。「コロナが明けたら」という話は何度か聞いたものの、どこか現実味がなかった。
気がついたら、イライラしていたのかもしれない
緊急事態宣言が明ける2日前、茶沢通りの居酒屋でテイクアウト用の食事を買おうとすると、「少し時間をいただけますか」と言われた。私が店に着く直前にカップルが店を出たばかりだったので、作り置きしていた分がはけてしまったのかもしれない。
「雨降ってますか? もしよければお店の中で待ちませんか」と勧められ、少し躊躇しながらご厚意に甘えることにした。店内には厨房に立つ3人と、カウンターに座る1人の客しかいない。壁に貼られた、居酒屋でおなじみのメニューが目に入る。炙り〆鯖、おでん、フライドポテト、梅水晶……ちょっと前までは日常的に食べていた料理名が、なんだか懐かしい。この店はレモンサワーが名物のようで、ひときわ大きな紙に宣伝文句が書かれていた。
「レモンサワーが美味しいんですよ、うちは……もしよかったらお弁当ができるまで、1杯どうですか?」
唐突に店員さんに提案され、思わず「え、いいんですか?」と返す。すると「19時までは提供できるんですよ。それ以降になるとダメなんですけど」と説明してくれた。密な状態ではないし、19時よりも全然前だ。でもいいのだろうか……不謹慎ではないのだろうか……。しばらく考えて「じゃあ、一杯ください」と注文した。
どうやら、このお店は当初5月末まで休業する予定だったが、数日前からテイクアウトを開始したらしい。私に応対してくれた店員は、他店舗で働いていたという。
「僕が働いていたお店は、年明けにオープンしたばかりだったんですよ。最初は、メディアさんにも取り上げてもらって幸先が良かったんですけど、2月頭ぐらいからどんどん客足も減って……ここの店舗はテイクアウトを始められそうだったので、手伝いに来たんです。自粛が明けたら僕のお店にも来てくださいね」
こんな会話をしているうちに、レモンサワーがサーブされた。橙色に光るお店の照明に照らされたレモンサワーは、大げさではなくキラキラして見えた。炭酸の細かい泡がラメみたいに光っては消えて、上にのったレモンは気持ちよさそうに揺れていた。初めておもちゃを買ってもらったような気分だ。口角がぐぐっと上がるのがわかった。
「ものすごく……厳しく自粛してたんですか? お疲れさまです。乾杯!」
多分、その店員は何の気なしに発したのだろう。もったいぶることなく、自然な声色だった。
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