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抗がん剤をやめるか、やめないか
― 2018年 父66歳 母62歳 私33歳 ―
「肝臓のがんが大きくなっているのと、肺への転移が見られます」
11月最後の日。今回のCT検査の結果は、芳しいものではなかった。
4種類目の抗がん剤は、母のがんの進行を食い止めてくれてはいなかったのだ。
主治医からの診断結果を受け、母に同行した兄が聞いた。
「別の薬を試すのは有効なんでしょうか?」
「次の抗がん剤を試す価値はあります。ただ…はっきりした効果が出るとも言えない状況です。」
主治医は、前向きさは失わない口調ながら、言葉を濁す。
「年を、越せないくらいなのでしょうか?」見かねた母が、たずねた。
「そういう段階ではないですが、そうでないともいえません」
煮え切らない答えだった。主語も述語も省かれていても、それが何を意味するかは誰しもが分かっていた。
家に帰宅してからの母は、明確な答えをくれない主治医に少し苛立ちながら、愚痴るように言った。
「年内って、まだ二ヶ月くらいあるような気がしてたけど…考えてみたらもう12月になるんだから、一ヶ月しかないじゃんね…」
次の抗がん剤を試すか、やめるか。
これから先、どうするか。その決断は、本人や家族が下すしかない。
私は昨年、母の抗がん剤治療がはじまる際に、主治医から言われた言葉を思い出していた。
「抗がん剤は効力も強い分、副作用による体への負担も大きいものです。緩和ケアも同時に行なっていき、その薬ががんに効く効果よりも副作用のダメージが上回ったときは、緩和ケアにうつることをおすすめします。緩和ケアは、治療を諦めるというよりも、痛みを和らげる措置をしていくものです」
1年3ヶ月前に聞いたときには、それは前向きな言葉に聞こえたし、なるほどそういうものかと納得した。
ただ、いざその状況が目の前に迫ると、「母はその段階である」と認めるのは怖かった。その決断は、死に向かって行く母を見送る体勢を取らなければいけないと、私に言ってきているような気がした。
お葬式、どうしようか
「今日実家帰るから、これからどうするか今夜話せる?」
病院にいる兄から、検査結果を伝えるLINEがきていた。私は「了解」と返信して、ため息をついた。
検査結果は、そう意外ではなかった。母は目に見えて弱っていたし、薬が効いて快方に向かっているとは思えない状況だったから、やっぱりそうかと思ったものの、気は重かった。その日は一日中どこか上の空で、母のことばかり考えていた。
帰宅途中、最寄駅の駐輪場にとめた自転車に乗って帰ろうとしたが、どうしても鍵が見つからない。自転車は目の前にあるのに、鍵がない。自分の所持品の中に絶対にあるはずのものなのに、カバンをひっくり返してもポケットを探っても、どうしても出てこない。そういう日って確かにあるが、何も今日じゃなくてもいいのに。
諦めて、とぼとぼと歩いて帰ることにした。
家につくまで一歩ずつ進む自分の足元を見ながら、私は、少しずつ覚悟を決めようとしていた。
1日でも、母に長く生きて欲しいとは思う。だけど抗がん剤をこれ以上投与することが母の寿命を伸ばすとも思えない。抗がん剤をやめたら、母の寿命は縮むのだろうか。それでも苦しみや痛みは、できる限り少なくしたい。
頭でははっきりと出ている結論も、ひとりで口に出すのは怖すぎた。
私よりも先に家に着いていた兄と、帰宅早々に話をし始めた。
抗がん剤は、もうやめどきかもしれない。でももう少し、がんばる余地はあるかもしれない…。結論は、行ったり来たりしていた。『やめる』方向に傾いてはいるものの、どこか口に出して決めてしまうのが怖いような、モゴモゴとした気持ちを一旦脇において、兄は今後発生するであろう相続の話、父の介護や母の介護、ホスピスのことなど、現実的な話に議論を進めた。私たちが考えるべきことは、あまりにもたくさんあった。
深刻な話を続ける中で、不意に父がテレビの音量を上げ始めた。苛ついた私は、「今本当に大事な話してるから、そんなに見たいなら自分の部屋に行って!」と強く言った。
1年くらい前なら、父もわからないなりに質問を繰り返したり、母の面倒は俺がみる、といって聞かなかった。それが今、ここまで母についての話に入ってこなくなるとは思わなかった。
本当に話を理解していないのか。あるいは、心が拒否しているのか、一体どっちなのだろうか。
翌朝早々、兄は仕事に出かけ、父をデイサービスへ送り出し、私は母と家で二人きりになった。午後、ゆっくりとソファに座り雑談していると、母がふと切り出した。
「お葬式、どうしようか」
私はうまく返事ができずに、微妙な相槌を打つ。「あー……うん」
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