それでは犬どうし、腹を割って話しましょう」|八面六臂(一)1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。


 明治三年(一八七〇)となった。この年、大隈は働き盛りの三十三歳になるが、相変わらず八面六臂の活躍は続いていた。

 大隈の近代化政策は、鉄道だけにとどまらなかった。

 電信こそ藩の垣根を破壊すると信じた大隈は、鉄道と並行して電信の敷設に力を尽くす。

 前年の明治二年前半には太政官の決定がなされ、九月十八日から電信の敷設工事が始まった。

 後にこの日は電信電話記念日に定められる。

 そして十二月二十五日から、東京・横浜間で公衆電話での会話が可能になった。以後、電信と電話は日本国中に網の目のように張りめぐらされていく。

 また灯台の設置、度量衡の統一、郵便制度の制定にも、大隈は力を尽くした。とくに郵便は、大隈の朋友の前島密が担当し、近代的郵便制度の確立に寄与した。

 さらに大隈は、伊藤と共に工部省の設置にも力を尽くし、渋沢栄一の協力を得て富岡製糸場の設立を支えた。

 かくして木戸派と呼ばれる急進派官僚たちは、政府の中枢に居座り、次々と近代化政策を実現していく。

 だがこうした急進的政策に反発は付き物だ。その中心が薩摩閥の巨魁・大久保利通だったことで、木戸派の苦難の道が始まる。

 この頃、政府中枢では、漸進派の大久保と急進派の木戸の対立が浮かび上がってきていた。

 双方は微妙な均衡を保ちながらも、少しずつ近代化の方向に進んでいた。というのも双方の相違点は近代化のスピードであり、真逆の意見ではないからだ。

 それに忸怩たる思いを抱いていた大久保にとって、有利な風が吹き始める。すなわち明治二年は東北を中心に大凶作に見舞われ、人民の困窮が極限に達していた。大久保は「民意第一」を唱え、官民挙げての救恤策を講じようとする。だが少ない予算を救恤策に取られてはたまらない木戸派も、予算防衛に走る。その急先鋒が大隈だった。

 ところが木戸派に二つ目の逆風が吹く。

 長州藩に所属する奇兵隊などの諸隊の一部が、政府に抗議し、反乱軍と化した事件が起こったのだ。

 これを世に「脱退騒動」と言う。

 明治になってからも、長州藩では奇兵隊などの諸隊約五千人を食べさせていた。そのため財政が困窮し、早急に人員の削減を行わねばならなくなっていた。

 そこで藩庁は、元々武士だった上士階級二千人を除いた約三千人を一方的に解雇した。戊辰戦争で死に物狂いの働きをした者たちも一律に解雇され、突然収入の道を断たれたのだ。これに怒った千二百人余が脱退騒動を起こし、農民一揆と合流して千八百人となった反乱軍は、山口藩議事館を包囲して抗議した。

 この反乱に驚いた政府は、これを抑えられるのは木戸しかいないとなり、木戸を山口に派遣する。

 木戸は陣頭に立って鎮圧にあたったので、小競り合いだけで鎮圧に成功する。だがこの事後処理などで、当面、山口を離れられなくなる。

 その間、大久保は「民蔵分離」と呼ばれる改革、すなわちこれまで一つの省庁だった民部省と大蔵省を二つに分けることで、木戸派の力を削ごうとした。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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