十六
明治二年(一八六九)十二月二十日の深夜、事件の一報を受けた大隈は、築地の自邸から東京の溜池葵町にある佐賀藩邸に人力車を飛ばした。
藩邸に着いた時はすでに夜明け近い時間だったので、門は閉ざされていた。大隈は藩邸内に向かって、「大隈だ。開けろ!」と怒鳴ったが、夜番の門衛では判断がつきかね、上士の一人が叩き起こされてきた。
「どなたでござるか」
「大隈だ!」
「あっ、大隈か!」
門の横の潜戸が少し開けられると、広澤達之進が目をこすっていた。この頃、広澤は閑叟や直大の秘書のような役目を果たしていた。
「早く開けろ!」
「またお前か。わしが夜番の時には来るなと言っただろう」
「そんなこと知るか!」
体を押し入れようとする大隈を制し、広澤は潜戸を半開きにして、恐ろしげに外の様子をうかがっている。
「何をやっている。早く入れろ」
「御家老から討ち入りを警戒しろと言われているのだ」
「誰が討ち入る」
「分からん」
「馬鹿野郎、もう明治の世だぞ!」
そう言いつつ体を滑り込ませた大隈は、広澤の先導で藩邸の奥に向かった。
一つの部屋の前で広澤は止まると、中に声を掛けた。
「ご無礼仕ります。大隈八太郎がやってまいりました」
「大隈だと。わしは呼んだ覚えはないぞ」
障子の中から不愛想な声が聞こえる。
——よかった。
その声が苦しげではなかったので、大隈は胸を撫で下ろした。
「いえ、会いたいと申しているのは大隈の方で、いかがいたしますか」
「分かった。めんどうだから入れろ」
その男は、体中を白布でぐるぐる巻きにされているにもかかわらず、机に向かって何かを書いていた。
「江藤さん、ご無事か!」
「大隈か、久しぶりだな」
江藤が机から顔を上げずに答える。
佐賀藩の藩政改革に着手していた江藤新平だが、明治政府の人材不足により、十月末、上京命令が下った。江藤としては道半ばの藩政改革を放り出すのは不本意だったが、「国家危急の時なれば召しに応ずべし」という太政官の召命を受け、中央政府に身を投じることにした。むろん閑叟にも異存はない。
十一月初旬に上京した江藤には、中弁という太政官の中枢の地位が与えられた。中弁は太政官の庶務を担当し、太政官への上申書の審査や受理、また太政官の発する布告等の起案や起草を担当することになる。つまり実質的に江藤が、太政官の庶務全般を切り回すことになる。
「江藤さん、もうよろしいんですか」
「見ての通り、斬られたばかりだ。よろしいはずがあるまい」
白布にはうっすらと血がにじんでいる。
それを見た広澤が泣きそうな声で言う。
「江藤さん、医者から『寝ていろ』と言われたではありませんか。起きていては困ります」
江藤が泰然自若として言う。
「寝ていても起きていても死ぬ時は死ぬ」
「よく分からん理屈だな」
「いいからそなたは下がっていろ」
江藤から下がるように命じられた広澤は、ぶつぶつ文句を言いながら、江藤の部屋を後にした。
「それで大隈は何用だ」
「何用も何もありません。刺客に襲われたという一報が入り、築地から人力車を飛ばしてきました」
「そうだったのか。そいつはすまんな。酒でも飲むか」
「今夜のところはやめておきましょう。それより顚末をお聞かせ下さい」
江藤がめんどうくさそうに語り始めた。
それによると昨晩、江藤が藩邸を出て駕籠で寓居に戻ろうと虎ノ門辺りまで来たところ、六人の刺客に襲われた。刺客の一人が駕籠の中で半ば眠っていた江藤に刀を突き刺したので、江藤は肩に裂傷を負った。これで目覚めた江藤が、駕籠から転がり出るや、「無礼者!」と一喝したところ、刺客たちは逃走した。駕籠かきも逃げたので、江藤は一人藩邸まで徒歩で引き返し、治療をしてもらったという。
「それから藩邸は大騒ぎとなり、遂には皆で蔵から埃にまみれた槍や弓を取り出してきた」
普段は無駄口を叩かない江藤にしては饒舌だった。まだ興奮が冷めないのだろう。
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