十一
この頃、閑叟の動きも慌ただしくなっていた。三月に副島と江藤を伴って佐賀に戻った閑叟は、江藤の提案した藩政改革大綱を承認するや、明治二年(一八六九)の三月下旬、江藤を佐賀に残し、副島を伴って東京へと戻った。
五月、箱館戦争が終わり、諸外国から明治政府が唯一の日本の政府と認められた。
これと軌を一にするように、官制の改革と官吏の公選が矢継ぎ早に進められ、閑叟は岩倉具視と徳大寺実則と共に議定に就任する。徳大寺は後の侍従長のようなものなので、政府の最終決定権を公武、すなわち公家を代表する岩倉と武家を代表する閑叟が握ることになる。遂に閑叟は旧藩主としてはただ一人、明治政府の中枢を担うことになったのだ。
薩長両藩出身者が中心の新政府において、閑叟が両藩主を差し置いて最高位に就いたことは、閑叟の有能さを周囲が認めたこともさることながら、「明治政府が薩長両藩だけのものではない」ことを国民に知らしめる効果があった。それと同時に閑叟には、双方が分裂しないための調整役も期待されていた。
ただし閑叟の病状が悪化していくに伴い、版籍奉還から廃藩置県への道筋は、薩長両藩出身者を中心にして進められていくことになる。
そうした政府中央とは別に、大隈は政府の抱える個別の問題の解決に取り組んでいた。
この年の年初に、大隈は外国官副知事と会計官御用掛(三月に副知事に昇格)を兼務することになったが、会計に不慣れな大隈が、外国官と会計官を兼務したのには理由があった。
それが小松帯刀の置き土産である。
「どうしてくれるのですか!」
パークスが机を叩いて喚いたが、大隈は平然としていた。
「私はイギリスだけでなく、諸外国の代表としてここに来ています」
太政官内にある大隈の事務所は、パークスが吸い続ける葉巻の匂いに満たされていた。
「それは分かっています」
「いかに内戦で戦費を調達せねばならないとはいえ、不換紙幣を濫発して乗り切ろうなど、欧州ではあり得ない話です」