やがて貨一郎がやってきた。
「何の御用で」
「お前は明日から来なくていい」
「へっ、またどうして」
「働きが悪いし、腕も悪いので馘首とする」
「旦那、いくらなんでもそんな。私は政府から紹介されて、こちらに来たんですよ」
大隈は珍しい生き物でも見るような顔をすると、当たり前のように言った。
「俺が政府だ」
「馬鹿言っちゃいけねえ。冗談はやめて下さいよ」
「そうかい。じゃ、俺が政府じゃないという者を連れてこられるか」
貨一郎が言葉に詰まる。
「今日までの給金はきちんと払ってやる。だが明日からは来なくていい」
「分かったよ」
突然、貨一郎の口調が変わる。
「こんなところになんか来るもんか。勝手にしろ!」
「それでよい。二度と顔を出すな」
「ああ、二度と来るものか。おい、綾子、行くぞ」
その言葉に、綾子が反射的に立ち上がる。
「そうだ。言い忘れた。綾子さんは置いていけ」
「何だと。どういうことだ」
「綾子さんはお前と離縁することになった。お前の家には、もう戻らない。後で人力車を送るので、綾子さんの荷物を積んで送り返せ」
「ちょっと、ちょっと待ってくれよ。綾子は俺の女房だ。いくら政府の高官だからといって、他人の女房を盗むのは間違っている」
「それはそうだ。では、綾子さんの意向を聞こう」
大隈がゆっくり綾子の方を向く。
「綾子さん、あんたの人生だ。どちらか選びなさい」
貨一郎が急に媚びを売り始める。
「綾子、すまなかった。一緒に帰ろう」
綾子は俯いたまま立ち上がらない。
「ま、まさか、てめえ——」
「綾子さん、ここは、はっきりさせた方がよい。勇気をもって告げてやれ」
綾子は顔を上げると、はっきりと言った。
「貨一郎さん、短い間でしたが、お世話になりました。私はあなた様と離縁することにしました。このまま家には帰りません」
「な、何だと——」
「聞いた通りだ」
「この野郎。お前が政府の高官だか何だか知らねえが、俺の顔に泥を塗りやがったな!」
「そういう考えだからいけない。お前は綾子さんのことなど微塵も考えず、自分の面子だけを気にしていたんだ」
「何だと——。よし、分かった。では勝負しろ!」
「勝負か。それはいい」
大隈の顔が明るくなる。
「やめて下さい」
「綾子さん、心配は要らない。これまで殴られた分を返してやる」
大隈はシャツ姿になると、サスペンダーを左右に外した。
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