九
美登とのことがあり、いたたまれない思いで佐賀を後にした大隈だったが、気を取り直して東京に戻り、これまでと同様、仕事に邁進した。
そんな日々を送っていた明治二年(一八六九)の一月、営繕中の築地の新居を訪れた。
家族と住むことを前提で増改築を進めていたので、その予定が狂ってしまい、大隈は戸惑っていた。だが独り身を続けるつもりはないので、そのうち何とかなると思い、当初の予定通りに作業を続けさせていた。
多くの大工たちが行き交う中、大隈は居間の広縁に一人座り、冬枯れの庭を眺めていた。
かつては手入れが行き届いていたのだろう。雑草の中に顔を出す石灯籠は大きく、今は干からびている池には、大ぶりの渡り石が連なっている。
大隈はこの家の主だった戸川捨二郎安宅という旗本のことを知らない。
明治維新となって新政府に土地と屋敷を没収され、何代にもわたって住んできたこの屋敷を、戸川がどのような思いで引き払ったのかは想像もつかない。
戸川一家は、この広縁に親子孫三代で座して楽しく会話していたかもしれない。庭で遊ぶ孫たちの歓声を聞きながら、これからもずっと、そんな日々が続くと思っていたかもしれない。しかしそんなささやかな幸せは、時代の奔流に押し流されていった。
明治維新の片棒を担いだ一人として、この改革が正しいことだったのかどうか、大隈は疑問を抱いた。
時代の移り変わりによって富む者もいれば、すべてを失う者もいる。それが運不運と言ってしまえばそれまでだが、戸川捨二郎という一人の旗本にとって、明治維新は迷惑なことこの上なかったかもしれない。
——だからこそ、よりよき世を作っていかねばならないのだ。
口惜しさを胸に秘めて自邸を去っていく幕臣たちやその家族が、再び笑顔に包まれることを願い、大隈は国家に一身を捧げるつもりで、働かねばならないと思った。
明治政府は、これまで江戸幕府が藩ごとに自由にやらせていた藩政への介入を進めようとしていた。その第一歩として前年の明治元年十月、「藩治職制」という藩政の指導書を諸藩に通達し、中央政府の制度や職制に合わせるように、諸藩の組織を変えていくよう指導した。
これは諸藩でばらばらだった藩主以下の職制を統一させ、有能な者を登用しやすくさせるという狙いがあった。
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